酔の花 ---3---
さて
はどうしているだろう……そう思って角屋に顔を出しに来たお千は、知り合いの顔を見てバツが悪い笑いを浮かべて後ずさるしかなかった。
「千姫様……」
「あ、あら天霧。 近頃良く会うわね」
「悪戯はほどほどになさいますよう」
八瀬の長老方の御苦労が忍ばれますと、わざとらしい溜め息を零す天霧に、お千は慌てて話の鉾先を逸らした。
「そっ……そうそう。
さんの評判、どうなのかなあって気になって様子を見にきちゃったのよ。 天霧はもう見た?」
「五条君の芸者姿ならとくと拝見させてもらいました。 角屋さんのほうに、いろいろと問い合わせが来ているようですよ」
「あ、やっぱり?」
「やっぱり、ではありません。 置屋(遊女・芸者の派遣元の店)はどこだと問いつめる輩が出まして、まさか置屋が新選組ですとは言えず、私の馴染みということで誤魔化している所ですよ」
これは本当だった。
角屋のほうに、言わぬなら刀に訴えるなどと言い出す輩が乗り込み迷惑をかけたので、店に居合わせた天霧がかけつけてとっさにそう嘘をついた。
もそれに乗り、
「実を申せば、旦那様はすでに亡く、途方に暮れておりましたところを旦那様のお知り合いでありました天霧様が手を差し伸べて下さったのです。 せめて一周忌まではどなたのお話にも承知するまいと心に決めておりますれば、どうぞご容赦くださいませ」
主人の元におしかけた酔客の所に堂々と姿を見せ、平伏したのだからその度胸には天霧も息を飲んだ。
しかも、抜き身の刃をぎらつかせる酔客を見上げて、
「このお話がお気に召さぬと言われるのであれば、どうぞこの首、打ち落として持っておいきやす」
身も心もやらぬが、首だけで満足ならば持っていけと、凄みのある笑みを見せるものだから、酔客のほうが気押されて、酔いもすっかりさめた様子で店を出ていった。
そんな騒ぎがあったのが数日前、角屋に潜入している新選組の面々と内々の話をまとめた後の事だ。
もちろん、騒ぎは角屋にいた者たちに知れる事となり、
の評判は広がっている。
「お陰で私の仕事はやりやすくなった……のですが、これで万が一などあったら、私は
君に恨まれ、不知火と血を見る喧嘩になります。 頭の痛い事です」
「あら、
さんの弟と知り合いなの?」
「彼は我々の良き友なのですよ。 いずれ機会があったら紹介したい程です」
鬼を恐れず、利用することも考えず、ただ自分達と同じようにそこにいることが当り前なのだと、ストンと受け入れてしまっている希有な人間なのだと言うと、お千も興味を持った様子だった。
天霧のほうも、
が以前言ったことを思いだしてつい頬を緩めてしまう。
「この姉にして、あの弟ありなのかもしれませんね。 彼が我々を恐れない訳が少しだけわかった気がします。 少なくとも度胸のよさは間違い無く姉上譲りでしょうな」
「なあに? そんなにすごい子なの?」
「自分の首を片手でねじ切れる相手が隣に座っていても、普段と同じように茶が飲めるというツワモノですよ」
曰く、『熊が喋り出たとしても、受け入れられない人間はどこまでも受け入れられない。 自分は、そういう部分のネジは弛んでるどころかもともと無い』とあっけらかんと言ってのけている。
その上、
は長州であった戦争で不知火が鬼の本性を露にして力を奮う所を何度か見ている。
それなのに怯えもしない。
自分より上位の生き物が側にいることに、怖れもしなければ怯えもない……それが人として異質であることを理解しながら、隣に人が座っているのと、鬼が座っているのと熊が座っているのとで何が違うのだと真剣に首をかしげるような子だ。
最初は鬼に関わるなと脅して身を引かせようとしていた不知火も、今やすっかり諦めて、逆にあれこれ面倒を見ているくらいだ。
「ふうん、面白そうじゃない! ねえ天霧、そちらにいるなら一度会わせてよ」
「私は構いませんが、それよりも今は五条君のほうでしょう」
話がそれてしまったが、そうだった……とお千は口元を押さえた。
芸者と遊女の違いは何かと言うと、最大の違いは身体を売るか売らないかの違いになる。
岡場所などならともかく、島原などの高級遊里では特にその線引きはきっちりなされていて、芸者衆は唄や踊り、接待で宴の間を取り持つ事はしても色を売る事は無い。
客のほうでも、口説いて個人的な付き合いをする分には自由だが、遊里で芸者を寝床に連れ込むのは原則やってはならないこととされている。
もまた『芸者』として島原に入っているので、酒席に侍り、酌をしたり気のきいた会話で客を楽しませたり、舞や唄を披露することはあっても客と床入りするようなことはしない事になっている。
だが昨今、客のほうにも不粋な者が増え、特に京に昇ってきた田舎侍などは、遊び方というものを知らず、刀に任せて無理が通ると勘違いし、事あるごとに大声で脅し付けたり暴力を奮って女衆を泣かす、店も泣かすと評判がよろしくない者たちもいる。
天霧が心配しているのは、新選組と手を組もうとしている者……首謀者は『佐伯栄助』という者が、島原にとって事あるごとに刀をちらつかせて無体を強いるような『嫌な客』であることだ。
一端の人物を気取っていても、芸者と遊女の違いなど分かってはおるまい。
良い女を手の内に囲っているのは力のある男に相応しい行いであると心の底から信じているし、芸者も遊女も迫られて悪い気はするまい、嫌も駆け引きのうちと本気で思っているような輩だからタチが悪い。
に相手をしてもらわねばならぬのがそういう男なのだと思うと、不安を感じずにはいられない。
万が一の時にはこちらの作戦をフイにしてでも助けねばなるまい。
そろそろ、例の宴席に出る者たちが集まって来る刻限になる。
天霧は、
と新選組の者たちが居る部屋に入ると、もう一度手はずを確認しようということになり、全員輪になって座った。
今日の席上で、伊東たちと手を組むための条件を煮詰め、書状にしたためて伊東の元へ密かに送る予定だという。
その書状とやり取りをした人間を押さえられるなら、これ以上の証拠もない。
「私が、五条君を馴染みということで宴席に引き込み、例の輩……佐伯といいますが、彼に紹介します。 まあ、これは確実に食いつくでしょうな」
天霧は、今日も念入りに装っている
にちらりと視線をやる。
本当に、普段の男装からは考えられないくらいの化けっぷりだ。
目元が涼やかですっきりとした頬から顎にかけての線が美しく、着物の襟を抜いてみせているうなじのしなやかな所など目が離せない。
着物に隠された肌身の美しさはいかほどのものか、と大概の男なら妄想せずにはいられないだろう。
全体的に、京女にありがちな甘さはないが凛とした印象で、好みによってはたまらぬ美人だ。
しかも先日、刀を目の前にちらつかされてどうだと脅されても怯みもしなかったという気の強い所を見せてしまったために、それがまた評判を呼んでしまっている。
「そいつさあ……話を聞くだけでも、かなり嫌な野郎じゃん。 危なくねえの?」
「人の目がある所で押し倒す、などということはしないと思いますよ。 外面は良いですから」
藤堂の心配ももっともで、二人になってからが問題なのだ。
しかも天霧の言う限り、佐伯の性格であればこんな奮いつきたくなるような美女を目の前にして酌だけで済ませようとすることなど、まず、ありえない。
「私が、佐伯と五条君が一室で向かい合って話せるような状況を作ります。 その後、五条君がうまく佐伯から情報を引き出せればそれでよし。 新選組のお三方は、隣室に待機してもらい証拠が出た、と言う所で飛び込めば、書状も本人の身柄も押さえられるでしょう」
うまくはまれば、薩摩藩は厄介者を始末でき、新選組は内部分裂の危機に対しての切り札をひとつ増やせる事になる。
「しかし、薩摩藩としてはそれで良いのか? 佐伯という者、捕らえて事情を聞くなり国元に送り返すなりしなくても」
「それについては気づかいご無用。 上の方では、度重なる忠告を無視した佐伯にとうに見切りをつけているのです。 ここらで酷い目にあってもらったほうが、かえって藩内でくすぶる不穏分子への牽制になるというものです」
「なるほど、最後くらい役立ってほしいのは、そちらも一緒か。 ならば身柄は新選組が適当に利用させてもらおう」
山崎の物騒な言葉にも、天霧は御随意にと穏やかな笑顔で返すだけ。
これは本当に見切りをつけられているなと判じ、山崎も佐伯を捕らえてからの利用の仕方を内心で案じはじめた。
「五条、無理はするな。 何かあったらすぐに大声を上げるんだ、いいな?」
「わかりました。 ……ではそろそろ時間なので」
天霧と
が連れ立って部屋を出ていった後、新選組の面々はそれぞれの場所に待機して待とうということになった。
斎藤と藤堂は、
が標的を連れ込んでくる部屋の隣に潜み、山崎は万が一にそなえ、いつでも屯所に危急を知らせられるように別の場所に身を潜める。
「まだちょっと間があるよな。 俺、ちょっと外の空気吸って来る」
「平助、単独行動はよせ。 今日の客に俺たちの顔を知っている者がいて、万一見られたら事だぞ」
「だーいじょうぶだって、いくら俺でもそんなヘマしないって!」
ついでに手水すませてくるわと、藤堂は斎藤の制止を振り切って部屋の外へと出ていった。
厠から出てきた藤堂は、人目をさけて庭のほうへと回った。
暗い庭先を何とはなしに眺めながら、今回の作戦に自分が配置された意味を考える。
近藤や土方が、今この時期に薩摩と手を組もうなどと考えるはずがない。 なのに、新選組の中で薩摩藩と手を組み後ろ盾を得ようとしている者の目的は、新選組の内部情報を流して利を得ようとしているのか、離反にせよ近藤たちにものを言うにせよ、隊を大きく動かそうとしているかのどちらかだ。
前者であれば、これに容赦する必用などない。喜んで始末し、手柄とさせてもらう所だ。
だが藤堂は、九割方、後者のほうだろうと思っていた。
今や新選組内では、近藤・土方にそれなりの意見を言おうとするならば、守ってくれる後ろ盾を得てからでないと危ない。
会津藩旗下の新選組は、立場的に幕府を重んじ、守るべきだという立場にある。
その立場を揺らす者、論によって立場を危うくする者は許さない、という雰囲気が漂っている。
妙な論を吐いて同意者を募ったりすれば、何らかの理由を押し付けられて、最悪切腹させられかねない。
特に土方は、新選組という集団において思想および政治は『毒』であると見ている部分がある。
自分の考えを口に出せないような状況だから、このように裏で薩摩と手を組むなどと考える者が出たともいえる。
藤堂の考えの及ぶ限り、薩摩の後援を得てまで、近藤・土方にもの申したいと思っていそうな者は、ひとりだ。
伊東。
普通に考えるなら、今回の作戦を知らせるべきなのだろう。
伊東は、性格はアレでも新選組の幹部の中で最も交渉事に長け、言を弄して相手を言い包められる優秀な論客でもある。
第二次長州征伐意向、幕府の弱体化と内部の腐敗ぶりを感じ取っている彼は、このまま幕府に盲目的に従うだけでやっていけるのかと真剣に考えている。
佐伯とかいう男の身柄を屯所に連れ帰り、自白させた上で証拠の書状を突き付ければ、伊東の立場は一気に危うくなるだろう。
それでも近藤・土方と対立し、意見を言うつもりであれば見上げた度胸だが。
「……千鶴もあいつも……何考えてこんなこと引き受けたんだろ」
何か思う所があるから、堅気の娘ならまずやらないような事を引き受けたのだろうが、よほどの思いがなければできまい。
伊東もそうだ。
思う所を行動にするには、それなりの覚悟が必用になってくる。
近頃、新選組の行くだろう道と、この国の行こうとしている場所が食い違っていることに気付きはじめた藤堂にとって、自分の思いを見定めて、しっかりと歩いている彼等の存在が酷く眩しい。
くらべると、迷い悩む自分の存在が酷くもどかしく、ちっぽけなものに思えて仕方が無い。
「平助くん?」
「ああ、
か。 どうした?」
背後からかけられた声に、闇を見つめていた藤堂はその表情を消していつもの明るい顔でパッと振り向いた。
着物の裾を片手で持った
がつつましい歩幅で近寄ってくるのを見て、さきほどの考えとは別に『よくやるよなあ』と感心してしまう。
同じ芸者姿でも、千鶴の時のような儚げな印象はなく、
だとむしろ戦支度のように見えるのが不思議だ。
「そろそろ部屋にいてもらおうと思って、呼びにきたの」
「ああそうか、宴のほうももうそんな所まで進んでいるのか?」
薩摩藩の客分扱いの天霧が今回のような訳ありの宴席に呼ばれたのには訳がある。
先日
が刀を持って無体を強いた客を追い返した時に、自分はこの芸妓の旦那の知り合いで、今は後見のような立場で世話をしていると話をあわせておいた。
評判は数日のうちに広まり、それを聞いた佐伯が、是非その女に会ってみたい、座敷きに呼んでみたいものだと言い出したので、天霧はしめたとばかりに、それならば自分の知り合いなので、宴席に呼んでくれれば彼女に引き合わせようと持ちかけたところ、佐伯はあっさりと乗ってきた。
「……なあ
、お前さあ、どうしてこんなやばい作戦乗ったわけ? いくら提案したのが土方さんで、お前が新選組にいる理由があれでもさ、絶対に嫌だって言えばあの人たぶん退いたぜ?」
「それは……」
藤堂の質問に、
は考える顔になった。
「強いて理由を上げるんなら、自分の気持ちに、嘘をつきたくなかったからかなあ。 何だかんだで、新選組には世話になってるんだから、手伝える事なら手伝いたいしね。 それにね、平助君」
「?」
「ああ言われて逃げたり引いたりしたら、敵前逃亡も同然でしょう。 あの男の前でそれだけは御免被る」
私はやるといったらやるぞと、
はフンと胸を逸らした。
内心複雑ではあるが、毒を食らわば何とやら。
「自分の中の絶対に譲れない場所、それさえ見定めておけば、腹も据わろうってものよ 酔っぱらいの人でなしが何ぼのものかってね」
「こんな格好するのも、酔っぱらい男の側に行くのも、その『譲れない事』のためなのか?」
「そうよ。 そのために新選組の力を借りているんだもの、私も自分のできることで返す。 借りっぱなしじゃ、個人的に気分が悪いって事もあるかなあ」
今回は、土方に意地悪された分、グウの音も出ないくらいに徹底的にやってやらなきゃ自分自身の気がすまないという事もある。
そうで無い時でも、見失ってはいけないもののためなら、時に屈辱に耐え、敵の傘下に入る事にも甘んじ、己を押さえる事もまた仕方のないことだと言う
に、藤堂は、
「ったく……俺よりよっぽどしっかりしてるよ。 あの鬼野郎は信用ならねえし、最低男の宴席にお前が出るのも、俺としては本当に嫌なんだけれど、お前がそこまで腹を据えてるなら協力するしかないじゃんか」
「やっぱり、手を組むのは嫌だったよね……」
「まあな。 この傷の借り、まだ返してねえしな。 確かに借りっぱなしってのは気分悪いぜ」
藤堂はうまく前髪で隠れている傷を押さえた。
男の向こう傷なので恥じる事はないのだが、当時の状況を考えるとやはり屈辱は残る。
「さて、行くか! さっき一君も言ってたけれどさ、何かあったら大声だせよ。 ぶった斬ってやるから」
「斬っちゃあだめ。 半殺しまでにしといて」
「えーー。 そりゃあ難しいな」
二人並んで廊下を歩き、藤堂が待機する別室に入ったと所で、ちょうど禿の少女が
を探しに来た。
「姐さん、逢状かかりましたえ。 早う来ておくれやす」
少女に袖を引かれ、こちらの宴席だと案内された襖のむこうからはすでに堅苦しい話し合いは終わっているのか、砕けた笑い声が聞こえてくる。
襖の外から、禿が声をかけた。
「お客はん、綾菊はん連れてきましたえ」
『綾菊』とは、芸者としての
の名だ。
「ああ、どうもありがとう」
天霧が席を立ち、襖を開ける。
少女たちがぺこりと頭を下げて廊下の奥へ去っていくのを優しげな目で見送ってから、床に平伏して礼を取っている
に視線を移した。
「佐伯殿。 これが、綾菊です」
「お初にお目にかかります……綾菊と申しますぅ」
天霧の視線を感じながら、さて問題の輩はどういった人間だろうと思っていると、座敷の奥から声がかかった。
「お前が評判の芸妓か。 いつまでもそんな所におらず、こちらへ来て酌をせい」
「はい」
流れるような仕種で
が顔を上げると、座敷では数人だけの慎ましい宴席が行われていたようで、膳が複数出ている。
だがすでに帰った者がいるのか、室内には二人しかいない。
一人は天霧で、上座の位置に座っているのが、佐伯のようだった。
ひた、と目をあわせてみるが、外見は悪くない。
天霧ほど背は高くないが、年の頃は男盛り、体格は身幅も厚く盃を持ったために袖から見える腕も張りがあって引き締まり、弛んだ気配を感じさせない。
顔も悪くはないのだが、これは女は怯えて寄り付くまい、そう思わせるものがあった。
目が、ぎらぎらとしすぎている。
心の窓とはよくいったもので、内にある野心がそのまま目に出ているようだ。またそれを隠そうとしていない。本人はそれを男らしいと思っているのかもしれないが、これでは気に聡い色町の女は近寄ってこない。自分から厄介事に近付くようなものだからだ。
裾を捌いてしずしずと歩み、
は佐伯の側に腰を下ろした。
じろじろと無遠慮な視線を受けても微笑みを崩さず、佐伯の持つ盃に徳利を傾ける。
「これはこれは、百花咲き誇る都でも稀な美しさよのう! 都ばかりでなく、江戸の吉原にもこれほどの尤物はなかなかおるまいて!」
「ま……お上手言いはって。 名高い吉原の華と比べていただくほどではおへん」
そういいつつも、満更ではない様子で袖口で慎ましやかに口元を押さえて笑う
の様子は慣れたもので、佐伯の視線を気にする様子もないが、少し離れた場所にいる天霧の目から見ると、佐伯の視線はあからさまに品定めをするように
の上から下までを眺め回しているのが丸分かりだったりする。
これが、弟や不知火だったらこの場で佐伯に喧嘩を売りそうだ……そう思いながらも、作戦を進めるためには心にもない事も言わねばならない。
「綾菊。 佐伯殿に舞いを見てもらってはどうだね?」
「ですが……天霧様。 少し、手が痛みまして。 舞扇を取り落とすような不作法をしてしまってはかえって佐伯様に失礼を……」
佐伯も、そう言われて綾菊こと
の袖口から見える手首に、白い布が巻かれているのに気付いた。
実は、手首を捻ってしまったのは本当だったりする。
君菊に、座敷きで男の目を引くだけの舞いをいくつか習ったのだが、本番衣装をつけて稽古している時に、うっかり裾を踏んづけて、普段男装で過ごしている身の悲しさ、女の着物の不自由さに負けて受け身を取り損ね、ひっくり返って手を突いて、その表紙に痛めてしまった。
まずいな、と思いはしたが、挫いてもいなければ腫れるほどでなかったのが不幸中の幸い。 けっこう日にちのたった今でも、長く動かしたり筋を指で押さえると嫌な痛みが走るが、舞扇を取るのに不自由するほどではない。
先ほどの言は、手首の怪我にかこつけて佐伯の気を引くためにわざと言っているだけにすぎない。
案の定、乗ってきた。
「評判の芸妓の艶姿是非見てみたいぞ。 無理に幾度もとは言わぬから支度せい。 おおい、誰かおらんか、鳴り物を頼む」
佐伯が大きく手を打ちならして人を呼ぶと、それを聞いた禿が店にいた鳴り物得意の芸妓をつれてきてくれた。
は舞台がわりの金屏風の前に進み出ると、座敷の脇に座った三味線を持った先輩芸妓に軽く頭を下げて、一曲頼んだ。
そして懐から扇を取り出し、すいと広げる。
-----花も雪も、払えば清き袂かな、ほんに昔のことよ、我が待つ人も我を待ちけん-----
曲にあわせて、男の心変わりを嘆いて出家した芸妓の切々とした心を写して舞う
の姿を、天霧も静かに見つめていた。
これが作戦で、演技とはいえよくやる。
舞はこの作戦において、隠し芸を披露しただけのものだというが、なるほど、見たものをそのまままねる芸だけで動いているから、演出不足だしまだまだ動きに無駄やぎこちなさがあるが、酔っ払いの目を騙す分には充分だろう。
「(まあ、役得ということにしておきましょう)」
この事が知れたら、不知火がぎゃあぎゃあ喚くのが目に見えているが、作戦の事を差し引いても
の芸妓姿は目に楽しい。
「ううむ……」
「どうなされた、佐伯殿?」
「のう天霧、あれの旦那はもう死んでいて、お前が後見人のようなことをしているという話だったな?」
「はい、その通りですが」
佐伯は天霧の顔を見て薄く笑い、舞い続ける
のほうに視線を戻した。
「あの女、俺に譲ってくれ」
掛かった。
あっけない、と天霧も
も思ったが、それを顔には出さない。
むしろ天霧のほうは露骨に困った顔をして、
「そ、それは……。 あれの亡くなった旦那は、私の友なのです。 彼に任されて、まだ充分なこともできぬままでいる以上、顔が立たぬといいましょうか」
「いやいやいや、それならばきちんとした後見を探してあてがう事も、友に報いる事にはならぬか? それともお前、俺ではあの女の新しい旦那としては不服か」
不服も不服、自分が旦那であれば譲れと言われて承知など決してしない所だが、ここは困った顔をせねばならない。
「いえ、私も軽輩の身、いずれ綾菊には良い旦那を見つけてやらねば友も安心して眠れまいと思っていた所ですが……いやはや、困りました」
「何が困るというのだ」
「お聞きになりませんでしたか? 彼女はまだ旦那に心を残しているのです。 せめて一周忌が過ぎるまでは、どなたの話も受けるまい……そう固く心に決めて降るほどの良い話を断り続けているものですから」
名は出せないが、大坂の豪商、または東国の大身旗本が評判を聞いて是非にと望んだが、自分と同じく軽輩に過ぎない男を選び、その男が死んだと聞いて駆け付けてみれば、ひとり残された綾菊は哀れなほどに気落ちしていて、放っておけば後追いしかねない様子だったのを、ようやく立ち直らせた所なのだと天霧は語った。
「一周忌も近付いてきたのですが……それが済めばまたも彼岸に向かいかねない様子だったので、いつまでも鬱々としていては始まるまい、一度宴席に戻ってみてはどうだと言って、ようやく引っぱり出してきた所なのです。 今、下手に刺激をしたくは」
ないのです……と続けようとしたが、佐伯という男が女の心情などには興味をしめすとは、天霧も思っていない。
目の前に、気に入った女がいる、ならば手にいれねば男がすたると短絡的に考えるだろう。
しかもその女、豪商や旗本までが欲したが手にはいらなかった花となれば、なおさらだ。
「ええい、お前では話にならん。 綾菊と直接話をさせろ。 これ綾菊、舞はもう良い、こちらへ来い」
「はい」
は素直に従い、先程と同じ位置に腰を下ろした。
佐伯はずいと身を乗り出し、
「お前、旦那であった男が死んだそうだな。 どうだ、ならば俺のものになってみる気はないか」
「……え、そう仰られましても」
「俺は薩摩藩の中でもそこそこの立場にある身であるし、お前の後見としては充分な懐もある。 それにお前、前の旦那が死んだからとていつまでも心を残していてはその男も浮かばれまい」
「そういう話しでしたら、どなた様のお話もお断り申し上げて……。 せめて一周忌がすぎるまで、この身はかの人のものでありとうございます」
お許し下さいませ、と
は深々と頭を下げる。
「噂には聞いておったが貞女よの、そういう所も気にいった。 だがのう綾菊よ、お前は生きておるのだから、生きた男でしか慰められんのじゃ。 死人は墓から起き上がって来てはくれまいぞ」
「何とおっしゃられようとも……」
綾菊の語尾が震えた事に、佐伯は顔をしかめた。
まさか、こうも強硬に拒絶されるとは思っていなかったからだ。
しかも天霧も良い顔をしていない。
妓など、売り買いするからには所詮は男の持ち物、天霧も物を譲るのに何をためらっているのかと腹も立つ。
女にしても義理立てする相手がすでにこの世にいないのに、いつまでもこちらを見ようとしない態度が気に食わない。
「天霧様、佐伯様。 ……お許し下さいませ」
目元を袖で押さえた
は、弾かれたように立ち上がると座敷を走り出ていってしまった。
今まで座っていた所に、忘れていった舞扇があるのを手に取った佐伯は、数度それを開いたり閉じたりしたものの、不快そうに眉をひそめてそれを天霧に投げ付けた。
それを黙って受け、畳の上に落ちた扇を拾い上げた天霧はその上に視線を落とす。
「佐伯殿。 本当にあれの後見人になってくれる気があるのなら、追って下さい」
「何だと?」
「私のような軽輩がいつまでもあれの後見人になっていることこそ、彼女の害になるのだから早くしかるべき人をみつけなければ……と思いつつも、友の事もあり今日までずるずると引き延ばしてしまっていました。 ですが……良い、機会なのかもしれません」
死んだ男の残した空虚は、生きた男でしか埋められない。
それを聞いて、少し考えを改めたのだと、天霧は呟く。
「……私では、彼女のうつろは埋められないのです。 いっそ強引なほどに、彼岸に向いてしまっている心をこちらに戻す事はできそうにない。 ですから、その気があるならお願いできませんでしょうか」
「ふん。 最初からそう言えば良いものを。 貴様の了解があるなら、あの女は今日から俺の持ち物にさせてもらおう」
「はい」
がいたときとは、随分態度が違うなと思いながらも、これで佐伯は
を追って二人きりになろうとするだろう。
そうすればしめたもの。
のいる部屋の隣には、新選組の面々が詰めている。
これで
が佐伯に空涙のひとつも見せて、彼等と伊東たちが手を組もうとしている証拠を押さえ、その発言を新選組の者たちがしっかりと耳にすれば完璧だ。
大股な足取りでのしのしと部屋を出ていく佐伯の後ろ姿に冷たい視線をやりつつ、天霧は口元にそっと笑みを浮かべていた。
佐伯は部屋を出たあと、廊下にいた禿を捕まえ、綾菊の部屋がどこかを尋ねた。
「こちらのお部屋どす。 綾菊姉さん、お客はん、来てはりますえ」
「もう良い、邪魔だ。 下がっておれ」
「あい」
犬の子でも追い払うように佐伯はシッシッと手を振り、禿たちを追い払った。
そして、閉じられた襖の向こうに声をかける。
「綾菊。 入るぞ」
返事も待たずに襖を大きく開ければ、明かりもつけない暗い部屋で、鏡台にもたれて泣き崩れる女がいた。
「佐伯様……」
「天霧はお前を譲っても良いと言うたぞ。 後はお前の心ひとつじゃ」
大股に近寄って来る佐伯の顔を、キッと睨み上げて綾菊こと
は、
「うちの旦はんは、新選組に斬られましたんえ。 佐伯様はそれでも、新選組に目を付けられている女に付こうなどと?」
「何?」
「天朝様のために働いていた旦はん……お仕事の事は詳しくは教えてくれまへんかったけれど、お前のような者がもっと暮しやすく、幸せになれる国を作るのだといつも嬉しそうに話してくれました。 その旦はんが、むごたらしい姿になって、戸板に乗って帰って来た日の事……今思いだしても震えがきます」
戸板に乗せ、筵をかけた状態で送り届けられた骸の酷い有様といったらなかった。
「うちも、徳川の将軍様に仇なす者を匿っていた咎で壬生浪に連れていかれそうになりました。 きっと今でも、うちの所に潜む者はいたりせんやろかと思って見張られていましょ。 そんな女に肩入れした男はんがどうなるか、考えただけでも恐ろししゅうおす、どうか堪忍」
嫌だと頭を抱えて畳に倒れそうになる綾菊の側に、佐伯は近付いて膝をつく。
「何だ、そのような事か。 お前の旦那は不幸な事であったが、新選組が肩で風をきっていられるのも今のうちよ。 なにせ俺は、その新選組を潰すための大仕事をしているんだからな」
すっかり打ひしがれた様子の綾菊が、それを聞いて驚きに目を丸くする。
反応を得られたことに気をよくした佐伯は、綾菊の顔を覗き込み、
「そうじゃ、こういうのはどうだ。 お前が俺の持ち物になるのなら、俺が新選組を潰し、お前の旦那の仇を取って、墓前に局長・副長の首を供えてやろうではないか。 特に殺してやりたい奴がいれば名を教えておくがいい、事のついでに片付けてくれよう」
「何冗談言うてはりますの。 飛ぶ鳥落とす勢いの新選組をつぶせるなんて、夢物語どすえ。 ……でも、うれしゅうおす。 嘘でもそう言うてくれた人はあんたはんが始めてえ」
新選組と聞いただけで腰が引ける男しか見たことがないと言うと、佐伯はそいつらは男の紛い物だと貶めた。
「……本当に、うちが佐伯様の持ち物になったら、旦はんの仇を取ってくださいます……?」
「薩摩隼人は嘘はつかん」
「壬生浪の親玉の首を、あの人の墓前に供えてくださります……?」
は目をうるませ、佐伯を見上げる。
さきほどの睨み付けるものとは違い、縋りつくような目で。
「もしそれが本当なら、うちはその後、この身も心も、佐伯様にお仕えすると誓います。 ……お聞かせ下さいますやろか、憎い憎い壬生浪を、どうやって潰すんどす?」
それを聞けば、毎夜、毎夜思いだして楽しみに待つ事ができようと言うと、佐伯は満足げに頷き、懐に手を入れて一通の書状を取り出した。
「これはなあ、新選組から出ていきたいと言う者たちが、薩摩藩邸に滞り無く入れるようにするための約定を書き付けたものよ。 知らぬであろうが、新選組には隊を脱するのは問答無用で切腹という掟があってな、逃げても追っ手を出されて捕らえられ、下手をすれば打ち首になるのじゃ」
「まあ……恐い」
「じゃから、隊を抜けるに抜けられぬで困っておる輩が沢山おる。 我々はそういった者たちの後ろ盾となり、彼等が隊を抜けても容易に命を取られぬように守ってやるのじゃ。 そして彼等に、新選組と対立する新勢力を旗揚げさせて……表向きは協力体勢を取らせながら、いずれは共食いさせる」
隊を抜けたいと思っている人間は多数いる。
また、彼等を掌握してひとまとめにできる者も存在する。
まずはごっそりと人員を引き抜いて弱体化させ、引き抜いた人間で組織した新勢力に力を貸して大きくし、新選組の対抗馬として育てれば、いずれは後ろ盾となる藩の主義思想の違いから自然と対立していく。
「女には難しいかもしれぬが、幕府はすでに落ち目よ。 新選組の後ろ盾は会津藩と幕府、此処で弱体化したら巻き返しはないということじゃ」
「さようで、ございますか……」
は、佐伯が持つ書状に手を伸ばして、もう片手で潤んだ目元を押さえた。
「この一通の中に、旦那はんの無念を晴らしてくれるものが詰まっているんどすな……」
「そうとも、そうとも」
佐伯は、書状が
の手に渡っても怒りもしなかった。 何といううかつ者だろうと思いつつ、
はそっと書状を胸に抱く仕種をし、ちらりと裏面に書かれている宛名を確かめた。
新選組で調べた、伊東の変名がしかと記されているのを確認して、伏せた顔の口元を僅かに微笑ませると、
は顔を上げた。
「うちは、佐伯様の持ち物になります。 だから、お頼み申し上げます、旦さんの仇を取っておくれやす」
「おう、まかせておけ。 ならば綾菊は今日から俺の女じゃ」
そうと決まったからには契り交わしても問題ない、幸い部屋には人もいないと、佐伯は鼻息荒く
の肩を掴み畳の上に押し倒そうとした。
帯に手をかけて、それが存外固い事にムッと嫌な顔をして、一度
から体を離す。
「帯を解け」
「はい」
も立ち上がり、豪華な打ち掛けを脱いで小脇に押しやると、胴を締めて居る帯の結び目に手を入れた。
幾重にも体を巻いていた帯が足下に落ちると、着物の合わせを閉じているのは頼り無い紐だけになる。
「……これで、よろしゅうおすか」
そこまでして、恥じらうかのように顔を背ける綾菊の様子に、佐伯の鼻息はいよいよ荒くなった。
豪商も、旗本も手にいれられなかった女がいよいよ手に入るのだと思うと気も昂るというもの。
やはり女の浅はかさ、新選組と聞いた時に思い付いた手がこうも嵌るとは。
好いた惚れたの弱味につけこんで正解だったと内心でほくそ笑む。
これで噂に名高い都の花は己の持ち物、男の甲斐性も満たされ同輩にも自慢ができると、もう一度女を畳に押し倒した、その時。
「……お前は我々の堪忍袋の限界というものをわかっておらん」
感情を押し殺した声が佐伯の背後からして、ぬっと鋭い刃が今にも重なりあおうとしている顔の横に突き出された。
黒い着物を着ているせいで、気配なく滑り出してくるとまるで闇が抜け出てきたように思える……斎藤が、抜刀してそこにいた。
「あーーーっ、もう聞くに耐えねえ! てめえ、持ち物、持ち物って、女の人を何だと思ってやがんだ!」
斎藤とは逆の方向、
の頭のある向きの襖がパーンと左右に勢い良く開いて、藤堂が姿を見せた。
目を吊り上げて、完璧に怒っている。
その藤堂の後ろから、忍び装束に身を包み、口元を隠した山崎が足音ひとつなく出てきて、
が先程、どさくさまぎれに打ち掛けの下に隠して部屋の角に押し遣った書状を拾い上げると、余裕の仕種で懐に収めた。
「大事な書状を引きはなされた事にも気付かぬとは、間抜けの極みだ。 増援を呼びに屯所に走る事もなかったな」
この状況になってから、佐伯はようやく慌てはじめた。
おぼろげながら自分が置かれている立場を理解しはじめ、打ち掛けと体の下の女を交互に見比べる。
やれやれ、と体の力を抜いた
は、手の届く距離に手鏡をかけた鏡台があったので、鏡の柄を手に取った。
そして、いままで慣れない京言葉に女の態度で過ごしてきた鬱憤を晴らすかのように――――
「いつまでもただ乗りしてるんじゃねえっ、この腐れ芋!」
叫ぶやいなや、鏡の面で佐伯の横っ面を思いきり張り飛ばしていた。