酔の花 ---4---


   鏡というのは、銅、または鉄製で、片面を磨いたものを柄のついた木枠にはめ込み、鏡台に掛けて使う。
 金属で出来ているのだから、下手ななまくら刀など数回は余裕で受け止められる頑丈なものだ。
 そんなもので人間の頭をひっ叩いたりしたら、どうなるか。

 新選組、副長室。
 見事に歪んだ鏡面を眺めて、土方は何ともいえない溜め息をついた。

「蹴り上げるくらいはすると思ったが、こう来たか」

 何をどう蹴る、とは土方も言わない。
 報告にきた斎藤も、角屋で濡れ場から一転、捕物現場と化した部屋からつい持って来てしまった品物だったが、言葉以上に現場の壮絶さを伝える事になったようで、結果的に良かったのかもしれないと、土方とは別の意味で溜め息をついていた。
 何せ、凄い事になったのだから。

 演技とはいえ、自分で帯を解き、脱がされかかる状況まで持って行った が鏡で佐伯の横っ面を張り倒したあと、男の体をはね除けて起き上がるやいなやもう一発、逆からぶん殴ったのだから。
 まさか女が化粧道具を振り回して暴れ出すとは思っていなかった佐伯は、訳の分からない叫びを上げたが、そこは斎藤と藤堂が飛びかかり、あっさりと押さえ込んだ。
 ようやく状況を理解した佐伯は、 に向かって雌犬だの売女だの淫婦だの、地獄に落ちろだの貧相な語弊の暴言を吐き散らかしていたが、 はなんとかの面に小便とばかりに、佐伯の目の前で髪に挿していた飾りを引き抜き、畳に投げ捨てた。
 崩れた結髪をほどいて背中にザッと流し、乱れた袷もそのままについさっきまで自分を押し倒そうとしていた男に背を向け、鏡をポイとほうり出す。
 そのまま隣室の闇に消えていったが、佐伯の暴言に怒ったのはむしろ藤堂のほうだった。

「うるせえよ、あんた。 あいつを貶める前に、自分がどれだけ酷い事して、酷い事言ったのかちっとは考えてみたらどうなんだよ!」

 金で買う事のできる女は、男の持ち物と評されるのが当り前だが、それでも女にしてみれば、好いたり惚れたりした男と共に暮すほうが幸せに違い無い。
 恋しい男を慕う胸のうちを盾にとって、自分の持ち物に、道具になれと迫るとは、武士として、男として、何より一人の人間としての品性に欠ける行いだ。
 しかもそれを恩着せがましく言うとは、いよいよ許せない。

「一君、こんなの野放しにしておいても良い事いっこもないぜ。 ……ああ、ほんといろいろ腹立ってきた」

 半殺しまでならよさそうな事を も言っていたし、尋問の前に少し思い知らせてやろうかと迫る藤堂を、斎藤は止めた。

「感情的になっては大した事は聞きだせまい。 こいつは屯所に連れていくと分離を企む輩に逃げられる可能性がある、別の所に行くから、駕篭を手配してくれ」
「ああ、土方さんとこの休息所? そういやいい具合の蔵があったね」

 佐伯を念入りに縛り上げるのは斎藤に任せて、藤堂は店の者に駕篭を呼んでくれるように伝えに行った。
 かくして佐伯は、生きた証拠として駕篭に押し込められ、土方の休息所まで護送されていった。
 その後角屋の主人に騒がせた詫びと挨拶を述べ、お千を呼んでもらい、 の世話を頼んだ所で、男連中は一旦引き上げて来た。
 お千のほうもぬかりなく、騒ぎがあったことを聞き付けて佐伯の仲間が戻ってきてもいいように、 を一旦店の外に連れ出してそちらで装束を改めさせてから屯所に戻してくれた。

 土方は、歪んだ鏡の柄をくるくると手の中で回しながら、

「……そういやあ、平助の様子はどうだ。 あいつは雪村の時にも随分この手のやりかたに反対してたみてえだからな」

 そう、尋ねた。
 今回の一件に藤堂を配置したのは、彼が思い悩む件についての意図を確かめたい事もあっての事だった。
 先頃から随分悩んではいるようだったが、何も言わず、相談もせず、ひとりで抱え込んでしまっているのを知っていても、藤堂の男の矜持を考えると、あれこれ子供の世話を焼くように口を出す事もできない。
 その件についての人間が捕らえられたとなれば、心中何かしら変化があるだろうと期待していた、と言ってもいい。
 彼を配置した意図については山崎にしか伝えていないが、妙に聡い斎藤の事、もしかしたら気付いているかもしれなかった。

「佐伯という男に、随分と腹を立てていたことの他には、何も。 ただ、尋問からは自分を外してほしいとの希望だったので、屯所に戻してはいますが」
「……そうか」
「一応の所、奪回を警戒して、山崎と五条が副長の休息所に詰めております」

 斎藤の報告は淡々としていて、気付いているかどうかを読み取れはしなかった。
 だが……まだ、平助の心は揺れているらしい。
 土方は、質問を変えた。

「そういやあ、お前も随分、五条の艶姿にゃあ当てられていたみたいじゃねえか。 どうだ、この機会に口説き文句の一つも言えたか?」
「ふくっ……」

 がらりと表情を変えてそんなことを言うものだから、真面目な報告をしていた斎藤の顔には一気に血がのぼり、何か反論をしようにもどもってしまい言葉がうまく捜し出せない。
 それでもどうにか、咳払いをして、

「誰が、あいつ相手に口説き文句など……」
「何だ、情けねぇ。 俺ぁ少し期待してたんだぜ、いくら奥手のお前でもああいう場なら思い切って言えるんじゃねえかってなあ」
「いくら副長でも、お戯れがすぎます」

 報告は終わりましたので、これにて御免……と、背を向けて部屋から出ていく斎藤の足取りがぎくしゃくしている。
 おそらく本人は気付いていまい。
 聞こえないように気をつけつつも笑いを押さえられず、机につっぷして笑ってしまった土方は、笑い過ぎで目元に浮かんでしまった涙を拭うと、筆を手に取る。
 千姫とあての礼状をしたためると、彼女と接触をとれる島原の君菊へ渡すよう隊の小者に書状を託し、自分は身支度を整えて屯所を出た。

「さて、あいつらに途中で何か買って差し入れてやるかね」

 行き先は、捕虜をおいてある自分の休息所だ。
 あまり長く放置しておいて自害でもされたら厄介なので、手早く尋問すませてしまいたい。
 山崎も も甘味も食べるが、先日誰かが買ってきたたまり醤油を塗った焼き団子をずいぶん喜んでいた。
 屯所の近くの物売り屋台から買ったのを分けてもらったのだと話していたから、休息所に向かう道にその屋台が出ていれば良いなと思いつつ、土方は休息所へ向かう足を速めた。








 新選組において、伍長以上の幹部は、休息所という家を持ち、屯所の外から通ってくることを許されている。
 その形態は、家を丸ごと借りる者もあれば、懇意の商家の離れを借りたり、民家の二階の一部屋を借りたりと様々だ。
 土方の休息所は屯所からさほど離れていない場所にある町家のひとつで、普段は雇い者の老爺が数日おきに掃除に来る他は誰もおらず、土方自身も特別な用がない限りはこちらに泊まる事はしない。
 むしろ、幹部の会合、変装した場合の一時の潜伏場所などに使われる事のほうが多い。
 そういう訳で留守がちな家だったが、雇いの老爺がマメな性格なのか、いつ来ても掃除が行き届いていてこざっぱりとしている。
 うなぎの寝床に称される京の町家は風通しが悪そうだが、奥の座敷には陽当たりの良い庭から心地の良い風が吹き抜け、襖を開け放つと間をふたつ隔てた玄関のほうまで空気が流れるので、息苦しさはなかった。

「いたたたた」
「こら、動くな」

 午後の風の流れる座敷で、山崎は の腕の治療をしていた。
 舞の稽古の途中にひねってしまったことも忘れ、その手を使って鏡……金属板で思いきり人間の頭をひっ叩いたりしたものだから、せっかくの治りかけだったというのに痛みがぶり返してしまい、山崎得意の鍼治療の出番となった。
 鍼は山崎の実家の稼業で、新選組に入る前にその技術も一通り身に付けていたので、時々こうして誰かを治療することもあった。

「目の前に刀を突き付けられても平気な顔をしているくせに、どうしてこれが駄目なんだか」
「ちょっ……まだ刺す気ですか!」

 脇息の上に置いた腕には、経絡のツボに沿って何本も鍼が刺してある。
 それらから思いきり目を背けて、 は眉を顰めていた。

「本当だったら、この鍼の上に灸を乗せるといいんだが」

 無理無理無理、と はぶんぶん首を振る。

「だったら、大人しくしていろ」
「そういや、佐伯のほうはどうなってます」
「ああ、心配いらん。 あの鬼の言っていることは本当だったようだな、様子を探りに来る者すらいない」
「味方から切り捨てられたって本当だったのか、お気の毒様」
「簡単に切り捨てられるようでは、池田屋の時とは違って雑魚ということだな」

 ここに運んで来た時には、貴様らこんな事をしてただですむと思うな、すぐに同志が助けに来て貴様らなど皆殺しだとわめいていた。
 知らぬは本人ばかりなり、だ。

「池田屋か、なつかしいですねえ。 あの時は古高でしたっけ、彼は、長州側でも新選組屯所に乗り込んででも救出するべきだなんて話が出かかっていたそうですからね」
「その勢いで屯所に踏み込まれていたら、あの時はまずかったな。 何せ、夏負けで体調を崩して動けない者が隊の半数に及んでいた時期だ」

 本当にそうなっていたら、尋常ではない被害を出していただろうと も思う。

「佐伯については、明日にでも副長が来て処断を決めるだろう」
「そうですか、じゃあ是非」
「君は駄目だ」

 不満そうに唇を尖らせる を、山崎は軽く睨み、

「宴席で何をされたか容易に想像がつくんだが、これ以上の意趣返しはやめておけ。 ……我々の分がなくなる」
「え?」
「君と佐伯が二人きりになって口説かれているときに、俺や斎藤さん、藤堂さんも隣の部屋にいたんだぞ。 真横であんな真似をされて、腹が立たん訳がないだろう」

 あの時の藤堂さんの叫びがすべて代弁してくれたが、隊のために体を張ってくれているだけでなく、すでに身内のように思っている相手を、聞くに耐えない言い分で口説かれたばかりか、最低男の持ち物呼ばわりされて、腹がたたないほうがどうかしている。

「……」
「気付いていなかったのか? 意外と鈍いな。 とにかく、我々の意趣返しの分も残しておいてもらわないと割にあわんということだ」

 正直、意趣返し程度で済ませたくないのが本音なのだが。
 あの時、すぐ側で が、男の言うなりに帯を解き、押し倒された時、頭の中が真っ白になりかけ思わず飛び出しそうになったが、すんでの所で思いとどまった。
  が体を張って手に入れた書状を回収できなかったら、彼女のしてきたことが無駄骨になってしまう。

「正直、あれ以上の事をされたらどうしようかと思ったぞ」

 君の事だから、必用とあればやっただろうと言われてしまうと、 は否定できない。

「でもまあ、それで新選組が落ち着くなら良いじゃないですか」
「君的には借りを返した気分でいいのかもしれないが、こちらとしてはまったく良くないぞ。 ……誰が、身内をあんな男の持ち物にされて黙っていられるものか」
「たしかに、自分の母親や姉や妹があんな男の言いなりになってたとしたら、そっちを張り飛ばしてでも目を覚まさせなきゃ」

 風呂には入ったが、まだ触られた所が痒い気がするとあいている手で肩を摩る の横で、こいつ本当にわかってないなと山崎は小さく息をつく。

「あ、何ですかその溜め息。 たとえばですよ、沖田さんが自分のお姉さんの旦那がああいうのになった……なんて聞いたら、どういう行動に出ると思います」
「もちろん、笑顔で男を叩き斬りに行く」

 だろう、の仮定ではなくて、行くと確実な見通しとして発言しているあたり、なんだかんだ言って沖田の性格をわかっているなと思う。
  も同じ意見だと頷いてみせた。
 芸や身の上を売り買いする以上、持ち物と呼ばれるのは仕方ないとしても、なるべく良い持ち主に当たりたい。
 山崎はもう使わない道具を箱にしまいながら、

「あれが、五条君の心底好いた男だったら、あの時どうしていた?」
「……は?」

 突拍子もない質問に、腕に鍼をさしていいることを忘れて動かしそうになってしまい、山崎に手首を押さえられた。
 どうしていた、と問われても、急には答えが出てこない。
 最初から敵を攻略する算段で事に臨んでいたから、その考えはそもそも頭の中に入ってなかった。
 山崎は答えが聞きたいようで、じっと無言で待っているので、 も何か言わねばと思い首を捻る。
 少なくとも、最後の手鏡でひっ叩く、あれはしなかっただろうと答えをだすと、山崎はがっくりと肩を落とし、

「そうではなくてだな、好いた男が新撰組に敵対する存在だとして……男をかばって、我々と立ち回りをしたかということだ」
「あはは、それはないない」

  は、すがすがしいほどににっこりと笑って、

「好いた惚れたと、新撰組を引き換えにすることはできませんよ」

 惚れた男に尽くすのが女の幸せ、男の心変わりを嘆くのもその幸せのうち……と言われてしまえばおしまいだが、少なくとも今の には新撰組と引き換えてでも1人の男に尽くそうという気がそもそもない。

「世間に情なしとそしられても?」
「何で世間様の思っている筋書きのとおりにお涙頂戴の展開を演じてやらにゃならないんです、そんな気ありませんて」

 浄瑠璃になるような筋書きならば、惚れた男をかばって振るわれた刀に倒れながらも男を逃がし、血の海の中でなかせる台詞を残し息絶える。
 男は身を挺した女の行いを踏み台にして、志を果たし、やがて妻を具して子を得て、時折若い頃のことを思い返す。

「私に言われれば丸々死に損ですよ。 でもまあ……」
「まあ?」
「わが身に代えてもって男がまだ見つかっていないだけなのかもしれないしね」
「なるほど、まだ望みはあるということか」

 何かいいました?と首をかしげる に、山崎は微笑を浮かべつつなんでもないと首を振った。
 







「やっぱりといいましょうか、綾菊の置屋はどこだって問い合わせがたっくさん来てるわよ。 まさか置屋が新選組でーすとは言えないから、角屋さんと私たちとで、ごまかしているからまあ大丈夫だと思うわ」

 捕らえた佐伯からも重要な証言を引き出す事が出来てから数日。
 新選組屯所を訪れたお千が、そう言って島原の様子を伝えてくれた。
 芸者・綾菊が姿を消しても、行方を知りたいという男連中が多い。
 しかも、噂に色々と尾ひれがついているという。

「何でもね、姿を消したのは惚れた男の一周忌に自害してるんじゃないかって」
「ぶっ」

 お千と縁側に並んで腰掛けて茶を飲んでいた は、思わず茶を吹き出してしまい、あわてて口元を押さえた。

「お、お千ちゃん。 まさかと思うけれど他にヒレついてないでしょうね」
「とんでもない。 背ヒレも胸ヒレもちゃーんとついてるわよ。 やっぱり評判なのは、新選組に良人(おっと)を殺された悲劇の芸妓、それなのに目の前につきつけられた白刃をものともせずに、好いた惚れたを踏み越えて無理を通そうと言うのならそれも良し、身も心もやらぬが首はやろう、さあ落としてもっていけ、っていう下りかしらね」

 天霧と、刀を抜いた者を止めに来た数人は現場を見たっていうけれど、私もみたかった……とうっとりと目を閉じるお千の横で、 は額を押さえてしまっていた。

「そういうわけで、姑くは島原に近寄らないほうがいいわよ。  さんが綾菊で、しかも新選組にいるってばれたらそれこそ大騒ぎになるから」
「言われなくても行かないって……」
「そうそう、もう一つ。 あの後、天霧から接触があってね。 自分じゃ新選組屯所に行く訳にいかないから伝えて欲しいって」

 八瀬の姫に言づてを頼むなど、畏れ多いと最初は遠慮していて、 と親睦がありそうな所に手紙を預けようとしていた所を、お千が事情を察して自分から引き受けたのだという。
 屯所に遊びに行く良い口実にもなる。

「近藤さんや土方さんには、薩摩の天霧と手を組んだ事は秘密にしてあるのよね」
「うん、二人とも潔癖な所あるし、薩摩っていうと幕府に面従背反の態度を取って憚る事ない連中だって、むしろ嫌ってるから」

 このあたり、伊東に言わせれば政治的な舵取り感覚が非常に優れていると言うのだろうが、新選組の立場において薩摩のやりかたは到底認められるものではなかった。
 政治的な舵取り感覚の違いから、伊東が分離を考えはじめたのだろうが、それは今言わずとも良い事なので黙っていた。

「で、天霧は何て?」
「言えば分かるって言ってたけれど、『処分についてはそちらにお任せします、返送無用。 なお、そちらが得た書状にある約定については、何が書いてあろうとも薩摩の知る所ではない』だそうよ」
「なるほどね。 書状を盾に薩摩藩邸に文句つけに押し掛けても意味がないってことか。 でもまあ、そういう取引きがあったことがこちらとしては証拠になるんだし、こっち側の首謀者の花押もあったからね、証人が薩摩側に捨てられたからといって言い逃れさせるほどウチの局長も副長も甘くないよ」

 ここから先はあっちの仕事だ。任せてしまって問題ないだろう。
 そう言うと、お千も頷いた。

「所でお千ちゃん、今回の仕事の特別報酬ってことで、非番3日と軍資金を頂戴したんだけれど、どうせなら女だけで集まらない? 千鶴ちゃんや、君菊さんも誘って」
「いいわね、素敵!」

  の提案に、お千は破顔してポンと手を打った。
 そういうことなら、嵐山のほうに是非とも勧めたい甘味所もあるし、花や紅葉だけでなく、雪や青葉も見ごたえのある庭の店も知っている。
 早速にも君菊が座敷に出ない日などを聞いてこなければなるまい。

「女だけでおしゃべりできる機会なんてめったにないんだもの、うーんと楽しめるようにしましょ! 私が君菊の予定を聞いてくるから、 さんは千鶴ちゃんの方をお願いできる?彼女事情があれだし、石頭な人たちが渋るかもしれないでしょ」

 まかせろ、と は自分の胸を軽く叩いた。

「千鶴ちゃんだって島原でひと働きしているんだから、何としても了解取るよ。 こちらの休みは、好きな時に3日とっていいって言われてるから、お千ちゃんや君菊さんの都合にあわせられるよ」
「ほんと? じゃあ君菊の予定がわかったら、また来るわね」

 お勧めの場所に案内するから、期待しててねと楽しげに笑って、お千は帰っていった。







 所用を済ませて、薩摩藩邸に戻ってきた天霧の手には、一枚の紙があった。
 島原付近で売られていた瓦版……後の世に普及する『新聞』のはしりのようなもので、時事的な情報をいち早く伝えるための印刷物だ。
 政治的な印刷物は幕府の検閲の目が厳しいので、主な内容は天災や人災、心中や泥棒などの市井の事件だ。
 京では島原での出来事もよくネタになっているようだが、『消えた綾菊』は格好のネタだったようで、面白おかしく脚色交えて書かれている。

 挿し絵には白刃を抜いた酔客相手に、指をついて座りながらも強気に睨み上げている例の場面が描かれており、文面の最後には『綾菊の旦那の墓はどこにあるか分かっていない』と結末がぼかして書かれている。
 あの時、辻褄あわせに適当にでっちあげた設定が、こうもうまく嵌った上に世間の話題になるとは思っていなかった。
 あまり騒がれたり、綾菊とツテがあるなら行方を調べて会わせろ、宴席に呼べと言われないように藩の上役にはうまく説明したつもりだが、市井の噂までは止められない。
  たちも用心して、暫く島原界隈には近付かないでくれるだろうが、その間に噂が鎮まるのを祈るしかなかった。
 それにまだ、事を説明しなければならなくなりそうな相手がいる。

「……さて、どう誤魔化しましょうか」
「天霧様、そこにおられますか? 来客ですよ」

 今日何度目かになる溜め息を追い掛けるように、鬼仲間の訪れを告げる門番の声が背後から聞こえた。




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