羅刹女 ---9---


 妙に引っ掛かる事がある。
 千鶴から聞いたのだが、『薬』……新選組には、どうも怪我によくきく特効薬なるものがあるらしい。
 常備薬として土方家の家伝薬、石田散薬があるがそれとはまた別に、千鶴の父・雪村綱道が作ったものらしいが、詳細も本当にあるかどうかも不明だと。
 というかあるらしいのだが、幹部たちが意図的にそれを千鶴に教えない素振りなのだとか。

 さらに先日広間でちょっとした騒ぎがあり、どうやら伊東があの調子で山南の腕の事に触れてしまったらしく、本人は悪気はなかったようなのだがそのせいで幹部たちの伊東に対する風向きはさらに厳しいものとなってしまった。
 その時にどうも、土方が己の失言で山南を追い詰めるような事を言ってしまい、自己嫌悪からかその夜は嫌いな酒をぐいぐいと煽っていたくらいだ。

 ちり、と灯明の芯の揺らめく音がして、油が切れかけていることに気付いた は書き物をしていた手をとめて立ち上がり、油を継ぎ足した。
 また筆を取り、作業に戻る。
 今書いているのは、近藤が知り合いから借りて来た本を写す作業。 半分ほど進んだので、あと数枚進めたら目も疲れてきたことだし今夜は寝ようと決め、筆を墨につけた。

 だが、文字を写しながらも頭は『薬』の事で占められている。

「あっ」

 新しい紙に数行も書かないうちに文字を間違えてしまい、クシャリと丸める。
 そういえば先日沖田も薬の事を言っていた。
  の知る限り、刃物で腱を傷つけられた手足が機能を取り戻したということは聞いた事がない。
 父親が居なくなる前に話してくれたことがあったが、足の踵の上の筋は激しい動きを続けたり負担のかかる稽古ばかりしていると古くなった竹のように弾力を失って切れてしまうことがあるから、常日頃からふくらはぎや膝裏と一緒によく揉み解して柔らかくしておくこと、もし痛めたり切れてしまった場合は一度正しい方向に戻したら決して動かしたりせずに固定し、筋が繋がるまで足を使わずひたすら養生につとめ、運良く動かせるようになったのならそれから数年がかりで元通りに動くように訓練するのだと言っていた。
 それを思うと、山南の傷の深さでは養生したところでこれ以上の回復は望めない。むしろ、持ち上げたりものに添えたりする程度に回復しただけでも恩の字らしい。

 伊東は言ったという。
 たとえ剣士として使い物にならなくても、山南の論も頭脳は秀でたものであり、その価値はいささかも損なわれていないのだと。
 たしかにそうかもしれない。
 けれど山南にとって論も頭脳も自分にとっては付加価値でしかない。望むのは、剣士としての己の価値なのだと には痛いほど分かる。

 ……だから、同じように腕に、それも利き腕に傷を負いながらも運良く治った身としては何も言う事ができなかった。
 腕が思うように動かず剣士としての価値の在り処を取り戻せないまま、伊東という優秀な頭脳の参入でもう一つの立場さえも失いかけている山南からは、穏やかさというものがすっかり失われてしまった。
 永倉や原田曰く、昔は外面だけはすごくよかったのにそれが今は見る影もないとかなんとか、聞きようによっては非常に恐い事を言っていたが……事実、出会った頃は随分穏やかな人柄の人だと思ったものだ。
 実際、新選組に入るかそれともこの場で斬られるか選べと言う場面で助け舟を出して、言いにくいこちらの事情を自然と皆の前で引き出してくれた時の山南は、穏やかな笑顔と眼鏡の知的な瞳が印象的な落ち着いた男で、周囲の刺々しさの中でいっそ浮いているくらいだった。
 それが今や、凍てついた冬の月も顔負けの鋭さ刺々しさで、口を開けば出るのは嫌味、笑顔は皮肉に歪んでいるとくれば平隊士の口も自然と険しくなる。
 あれに比べたら鬼の副長が菩薩に見えるなんていう言葉を聞いてしまった日には、笑っていいやら口をつつしめと言っていいやら。

「駄目だ、寝よう……」

 このまま暗い部屋で考えていても、物事を悪いほうへ悪いほうへ考えてしまいそうで埒があかない。
 こういう時はとっとと寝て朝を待つ、さっぱりとした朝の空気を吸い込んで陽の光を浴びれば考えも少しは明るい方向へ向かうだろうと、 は硯箱に筆を戻して蓋をした。

 その時だ。

「誰か………誰か来て下さい!!!」

 夜の静けさを切り裂く絶叫が、閉めた障子の向こうから響いたのは。
 あの声は、千鶴。
  は寝巻きの白の単姿のまま刀をひっつかみ、障子を乱暴に開けると声のした方……いつも食事の時に集まる広間へと駆け出していた。
 そして広間で見たものは、想像を絶する光景だった。
 白い髪、赤い瞳をした山南が、千鶴に襲い掛かり華奢な首を締め上げようと手に力を込めた、まさにその時だった。
 脳裏にあの冬の日の事がまざまざと蘇ったが、一瞬を争う時に足を留めている余裕などない。
  はものも言わずに山南に向かって飛びかかり、渾身の力でその腕を引き剥がそうと手首を掴む。

「山南さん! あんた正気かっ!」

 千鶴の首を締め上げている右手は太い樹木の枝のようにびくともしない。それでも山南を千鶴から引き離そうと、掴んだ手首をねじりあげるように力を込めた。
 そうすることで、わずかに首を締め付ける力が弛んだのか、千鶴が掠れた声で山南を呼んだ。

「山……南さ、ん……」

 その声に反応したかのように、白い喉元に食い込む指がぴくりと動く。

「う……うぁあああああ!!」

 突然苦悶の声を上げた山南が、千鶴を突き飛ばし腕に取り付いていた をも巻き込み床に弾き飛ばした。
 かろうじて受け身を取る事に成功した は、床を蹴って山南と床に這いつくばるようにして咳き込む千鶴との間に割り込み壁になる。
 千鶴は苦しい息の下から、山南さんが薬を、とそれだけ掠れた声で言った。
 気にはなったが詳しく聞く余裕などない。
 山南は刀は抜かずにいるが、髪を振り乱し前屈みになって胸を掻きむしる様子はどう見ても尋常ではない。
 脂汗を滲ませた顔を上げ、見据えてくる赤い瞳には狂気とともに僅かな理性があったが、今自分と千鶴が非常に危険な状態に置かれていることは直感的に理解できた。

「……君……ですか……ちょうどいい、私を斬りなさい……何も、聞かずに……ころして……くださ……」

 途切れ途切れの言葉での、切羽詰まった懇願だったが、 は斬るべきか悩んだ。
 己の剣に迷いは禁物、そう己に言い聞かせていたというのに、この時それを躊躇った。
 これは、あの時の狂った連中なのか、山南なのか、迷ってしまったのだ。
 その迷いが、山南の瞳が狂気に支配されるのを見のがした。
 今度は自分の喉首めがけて伸びてきた手を払いそこね、もみ合いになってしまう。だが山南の力は凄まじく、今度は暴れ馬にはねとばされたような勢いで……それも腕を無造作に叩き付けられただけで体ごと吹っ飛び、半分開いていた障子に背中から激突しそのまま突き破って廊下に思いきり頭と背中を打ち付けた。
 ようやく呼吸と声を取り戻した千鶴は、自分の後ろで が崩れ落ちる様子を見て、声を限りに再び絶叫した。

さん……! 誰か、早く、早く来てくださいーーーーー!!」

 頭をうちつけたせいか、すべての景色が歪み、闇の中へ遠ざかろうとする中で沖田が駆けこんで来るのが見えた。
 苦しむ山南と沖田、千鶴が何かを言い合うのも幽かに聞こえたが、周囲の音も景色もどんどん遠ざかりやがて何も分からなくなってしまった。










 目の前の闇が陽に照らされた霧のように退いていくと、後頭部にズキリと痛むものを感じて は思わずそこを押さえつつ跳ね起きた。

「急に動いてはいけませんよ、頭を強く打ち付けているんですから」
「あ痛っ〜〜……あ、あれ、山南さん?」

 自分はどうやら、自室で布団に寝かされていたようだ。押さえた髪の上がひんやりと濡れている。どうやらぶつけた場所を冷やしてくれていたらしい。
 何が起こったのか分からないといった様子で混乱しきりの の様子に、山南はうっすらと笑むと、広間で倒れたあとここに運ばれたのだと説明してくれた。

「あれから、丸一日たっているのですよ。 タンコブの他には異常はありませんか?」
「少し……痣ができている気がしますけど、それだけ……だと思います」
「そうですか。 ……よかった」

 そう言って微笑んで、山南は が動いた拍子に落ちてしまった手ぬぐいを小脇においてある水を入れた盥に浸し、『両手で』絞りなおした。
 それを見た が信じられないような目をしているのに気付いた山南は、 の目の前で動かなかったはずの左手を持ち上げ、掌を握ったり開いたりしてみせる。

「まさか……『薬』、ですか?」
「おや、御存知だったのですか?」

  は、千鶴や沖田からちらりと新選組には傷によくきく『薬』があるということを匂わす話を聞いている、と答えた。
 それを使ったら、山南の腕が治ったということだろうか……?

「私は……悪い夢でも見てたんでしょうか」
「それを肯定する材料がどこにもないことは、君自身がよくわかっているはずですよ?」

 昨夜あったことはすべて現実なのだと、山南は笑みを深くした。
 白い髪、赤い瞳に狂った光を浮かべた人の形をしながら人ではない、何かを見たでしょうと山南は の目を正面から見据えた。

「……沖田君は、昨夜かけつけた事が善意からとはいえ、見てはいけないものをまたも見てしまった君を斬るべきだと主張したのですが……土方君が君にも知る権利くらいはあるだろうと主張しましてね。なら君が知りたいというのなら、私が説明しようということになりました」
「沖田さんの言うことはもっともだと思うんですけれど……何で『あの』土方さんがそれに同調しなかったんですかね」

 鬼の霍乱かと思ったが、事が組織の進退に関わる時の土方の決断は時に非情だ。
 ここに来た当初、譲歩の姿勢は見せていたが斬る気の方も満々だったくせに、不思議な事もあるもんだ、それともきちんと目がさめてから切腹でもさせる気だったかと が少しばかり投げやりに言うと、山南は 宛にきた手紙の一件の態度が、土方の考えを軟化させたのではないかと言った。

「長州兵が名を隠して送って来たあの手紙の一件は私も聞き及んでいますが、あなたそれを封も切らないまま近藤さんと土方君の前に出して、もし新選組の益にならないことや脱走教唆のような事が書かれていたら遠慮しないでこの場で斬ってくれと言ったそうじゃないですか」
「……そりゃあ、見る人が見れば、あの名前のぼかしかたじゃ分かると思いましたし、仮にも浅葱の羽織を着る人間が長州兵と個人的にやりとりをしていたなんてことが幹部の他に漏れたら私をここにおいてくれている皆の立場、丸つぶれでしょうから……」
「ふふ。 土方君はね、そういう潔い態度には昔っから弱いんですよ。 そういう危うい立場で自分の首を相手に委ねるなど、並み大抵の覚悟でできる事ではないでしょう。下手をすれば君は本懐を遂げられないまま、斬られていたかもしれないんですから。 これはそういう君の態度に対する、彼なりの譲渡というか……返礼のようなものなのでしょう」

 君が見た、人ではない何か、そしてそれらと『薬』というものの関わり……それを知りたいかと問いかける山南の目を、 は暫しの間真意を確かめるかのように見つめたあと……。
 ゆっくりと、頷いた。




 2年前。
 組織を興したはよいが、新選組の人手不足・戦力不足はそれはそれは深刻で、その上内部に行状がよろしくない幹部が幅を利かせるという非常に頭の痛い状況になっていた。
 内部の者の暴発を押さえるだけでも大変なのに、京阪の警備にも力を注がねばならない状況に、いよいよ進退極まったか……と思った頃。
 幕府高官が、良い戦力増強の手段があるともちかけてきた。

「それが、『薬』による人体の強化計画です。 その『薬』を服用すれば、多少の副作用とひきかえに肉体の治癒能力・生命力および筋力は爆発的に高まり、殺した所で死なない兵が出来上がる……
そういう話だったのです」

 淡々語られる山南の話を聞いて、 は不審げに眉をひそめた。そんな都合の良い薬があったのなら、世の中の外科医はまとめて廃業決定ではないか。

「旨い話に裏がある、って言いませんか、普通?」
「ええ、もちろんです。 裏がないほうがおかしい。 その『薬』を服用した者は、確かに爆発的な身体能力を得るに至りましたが、強すぎる薬の副作用に耐え切れず精神は崩壊・発狂してしまいました」

 新選組という実験場で、その薬を研究・改良するために派遣されてきたのが蘭方医・雪村綱道だという。
 千鶴の父は幕府からの密旨を受けて研究をすすめてはいたが、ある時突然姿をくらました。
 研究資料、『薬』の原液など……もし逃げるなら持ち出すであろうものの多くがそのまま残されていたことから、彼はさらわれた、もしくは殺されたのではないかと考え新選組も捜索を続けてきた。
 そのあいだ、『薬』の管理責任は山南にあったので、腕を痛めてから時間を見つけては綱道の残した資料を読み、独自に『薬』に改良を施してきたのだという。

「『薬』で肉体を強化しても、精神が狂ってしまったのでは意味がありません。 研究と何度かの実験の結果、ある程度の実用段階に漕ぎ着けはしたのですが、血の匂いで狂ってしまったり、狂暴化してしまうのは完全には押さえ切れませんでした」
「……まさか」
「ええ、多分あなたの想像している通りですよ」

 あの夜。
  が夜歩きを誰何された時、浅葱羽織の隊士たちは確かにまともな受け答えをしていた。 礼儀正しく、刀の間合いを保つほどだったくらいだ。
 けれど、怪我をした腕からしたたる血を見たとたん、容貌も目の光も一変していた。
 二の句が継げずにいる の目の前で、山南は袂から掌に乗る程度のガラスの小瓶を取り出してみせた。
 僅かに黄味がかった透明な容器の中に、毒々しいまでの赤い液体が揺れている。

「これが、説明した『薬』です。 ただしこれは私が改良を加え、肉体の治癒能力を残しつつ、精神の崩壊を押さえるべく原液となる薬を可能な限り薄めたものですが……結果は、ご覧になった通りですよ」
「っ…! そうだ、あの後……どうなったんです!? 沖田さんがかけつけた所までは記憶があるんですが」
「ええ、沖田君がきっちり止めてくれましたよ。 この薬は、改良前からそうでしたが肉体に急激な変化をもたらします。その最初の衝撃に耐えきれないとそのまま発狂してしまう事があるんです。 私はそれにやられて、ああいう行動に出てしまったわけですね」

 ……あれを止めるには、相当荒っぽい真似をしたのだろうと容易に想像がつく。

「正確に言うと、私は簡単に身動きとれないように、沖田君にばっさり斬られたわけですが」
「……ばっさり斬られた人間は、普通平気な面しておしゃべりしてないと思うんですが」

 足、ちゃんとついてますよねと、 が思わず確認しようとすると山南は自分の足首のあたりをポンポンと叩いた。

「御心配なく。 ちゃんとしっかり2本ついてますよ。 あの薬を飲んでしまうとね、多少斬られたくらいでは死ねないんです。 人間では致命傷になるような傷でも、たちまちのうちに治癒してしまうんです。例えばですが、今目の前でこう」

 山南は、片手で腹を斬る仕種をした。

「腸に食い込むほど刃を入れた所で、ものの十呼吸もあれば治癒してしまうんですよ」

 そういう効果を持つものだが、最初の衝撃と沖田の容赦のない一撃のおかげで自分はうまいこと気絶することができ、それが結果的に良い方向に働いて昏睡しているうちに肉体が作り替えられる最初の衝撃は抜けていった。
 意識を取り戻した時には太陽は昇っていたが、副作用の一環である日中の活動が困難になるという影響で少しだるさを感じる程度だけになっていた。

「ですが……五条君。 君が見たものと、『薬』の存在はご公儀の秘密でもあります。 今までも、これからも……存在を隠さなければならないのですよ」
「たとえ寝言でもうっかり言えませんよね、こんなこと」
「ええ、まさしく」

 この話を聞いた事で、君の立場はよくなるどころか悪くなっている。 今度こそ、隊を裏切ったり離れたりするような事になれば、秘密を守るために殺される事になるだろうと山南は告げた。

「……見てしまったもんは仕方有りません。 弟の事は無事が分かっただけでも御の字だと思っていますし、長州まであれの尻をひっぱたきに行くような馬鹿はやりませんよ」

 それに、こんなこと他人に話した所で良い事はなにもない。
 冗談が上手いと言われるか、頭がおかしいかと言われるかのどちらかだ。

「むしろ、こんな事になったからには約束なんぞ反古にして斬ってしまったほうがずっと新選組にとっちゃ都合が良いはずなのに、こんな手間をかけてくれるのを、裏切れる訳がないでしょう」

 弟の事は大事だし気になるが、世話になった上に信用を見せてくれている人たちへ信を返せないのは人の道にもとる。

「わかりました。 あなたの事については心配いらないと、幹部たちには私から言ってきかせましょう。 そうしないと、沖田君あたりが寝ている隙にぶすりとやりかねないですしね」

 彼も、近藤のためなら何でもやるフシがあるからと山南はさらりと物騒な事を言った。

「それと……これが、大事な事なのですが、私は死んだ事になっています。 あなたも私が死んだものとしてあつかってくださいね」

 すでに葬式の手配も進めていると聞かされて、 は目を極限まで丸くして山南を見つめ返した。
 葬式なんてとんでもない、足があるうえ、今目の前でものを喋っているではないか。 これが死体に見えたら眼科にかからねばなるまい。

「これまた私の不手際というか……前後不覚に昏倒している間に、伊東さんが騒ぎの何たるかに勘付いたようでして。 今頃、他の隊士たちと一緒に伊東さんにも説明が行われていると思うのですが、その席で私は死んだというふうに発表されるはずです」
「どうして、そんなことを」
「私さえ死んだことにすれば、一般の隊士や伊東さんたちに『薬』の存在を知られないですみますからね」

 ああ、そういうことかと一応納得はしたが、やることが思いきっているというか。

「そして、私はすでにあなたが見た者たちの同類です。 今後は彼等を指揮する事となりました」

 血の匂いで暴走、日中の活動が困難、人の目から隠す必要がある……それらを聞いて、 はもうひとつピンと来るものがあった。

「山南さん。 池田屋のあった夜、屯所の外に配備した隠し玉の戦力って、もしかしてその……『薬』を飲んだ人たちの事じゃあ」
「ええ、その通りです」

 流血確実、大乱戦になるような戦場に彼等は連れていけないから、屯所周囲に配置して、万が一に備えていたのだという。

「……頭、痛くなってきました……」

 タンコブだけでなく、別の意味でも。
 それはよくないと、山南は にもう一度横になることを勧めた。 がそれに素直に従うと、体をうつぶせ加減になるように傾けた状態で枕に乗せた頭の上に、手ぬぐいを絞りなおして置いてやる。

「沖田君あたりが押し掛けてこないように、今夜は私がここにいますから。 ……それとも、いつ取って食うかわからないような相手が枕元では、落ち着きませんか?」
「いいえまったく平気です。 おやすみなさい」

 さっきまで散々寝ていたというか、気絶していたのですぐには寝つけそうにはなかったが、思っていたよりは早く睡魔はやってきた。
 山南が布団を首元までかけなおしてくれる気配を感じながら、 の意識は静かな眠りの淵の中へ静かに沈んでいった。










◇◇◇◇◇











 山南の存在を隠すのに、すし詰め状態の屯所では狭すぎる。
 屯所の移転は急ぎ進められ、すったもんだの問題をかなり強引に片付けつつも壬生村の八木邸から西本願寺へと移る事が出来た。

「……それにしても、五両ですか……せめて切餅、二十五両とかどうにかならなかったんですか」
「言うんじゃねぇ、ってか思いださせるな。 顔から火が出る」

 幹部たちの起居する部屋のある区画の掃除と整頓をまかされた は、荷物をほどく土方の横でそう愚痴る。
 ちらりと横目で見れば、土方の顔は耳まで真っ赤になっており、あの事は相当恥ずかしかったようだ。

 発足したは良いが行き場のなかった新選組に、雨風凌げる家を貸してくれたばかりか、騒がしく血生臭い連中が増えるばかりで壬生村の人たちにも大層受けが悪かったろうに、八木家の人々は新選組を追い出そうとしなかったし何かと便宜を図ってくれた。
 もし八木家に何かあれば、必ずやその恩義に報いねばなるまいと思っているのは新選組の者なら誰でも同じだ。

「騒々しいわ建物は痛めるわ、下手をすれば戦火に巻き込んじまう所だったわ、俺たちのとばっちりでいつ刺客に乗り込まれるかわからんわ……それでも嫌な顔一つしないでいてくれた八木さんにせめて礼金を、ってのが筋だってのによ……その日に限って、金庫に五両しかないなんて誰が思うよ」

 勝手に金策致すべからずという法度があるのに幹部自ら借金に行く訳にもいかないから、せめて身内の誰かに借りようとしたが、どういう訳か皆そろって素寒貧。
 宵越しの金は持たないと豪語するような連中をアテにした自分が馬鹿だったと思いつつ、土方は賭けるつもりで の所にも声をかけたが、 も予備の刀を買ったのと、春に向って着物と袴の新しいのを注文したばかりで持ち合わせが殆どなかった。

 そういう理由だったので土方が五両を包んで八木家に挨拶に行ったのだが、2年の賃料にしてはなんともと苦笑を返されてしまい……それこそ穴があったら入りたい思いをした。

「八木さん、いい人だからな……事情は聞かないでおいてくれたけどよ、大体何で5両しかねぇんだ。 会津のほうからしっかり支給されてて数百両はあるはずだろが!」
「新規参入の隊士さんが思った以上に多くて、食費および雑費がけっこうかかっているのと、伊東さんたちの住まいのためにそろえた備品の代金が思ってるよりかかってるんじゃないですかね」
「何だと……?」
「人員が増えたことによる予算増の申請は上に出ているから大丈夫だって、勘定方の人たちは言ってましたけれど」
「じゃあ大丈夫じゃねぇか、何でだよ」

  は言っていいものかどうかと少し視線を宙に泳がせたあと、

「なんていうか……給料の前借りが殺到したらしいんですよ。 けっこうな人数があちらこちらでツケで遊んでて、引っ越しのドサクサで踏み倒されちゃかなわないからってお盆でも大晦日でもないのに掛け取りが来る所も……」

 新選組も大分名がうれて給料の出所もはっきりしたものだから、あちこちの店でけっこうツケが利く。
 それを良い事に、高くつく遊びをしたり、道楽につぎこむ者も増えてきている。
 とはいえツケの支払いで個人的な金策などしようものなら切腹ものだから、苦肉の策として給料の前借りに走ったわけだ。

「……前借りに来た連中ってのは、後で勘定方に問い合わせれば分かるな……どうしようもねぇ奴らだぜ」
「ま……まぁまぁ。 八木さんの事についてはまた別の事があったらかけつけるなり、違った形で報いれば良いこともあるんですから……むこう数カ月懐が寒い人たちをこれ以上虐めないでやってくださいよ」
「平でも月に十両出るってぇのに、どうやりゃそれを使い込めるのか知りたいぜ……」

 ちなみに、月に一両あれば親子3人いたとして楽に暮らしていける。
 島原あたりで太夫を買うなら、一両二分、さらに諸経費がかかるのだから、遊里通いがどれだけ高い遊びか分かると言うものだろう。

「……そういや、お前は趣味ってぇか、道楽事はねぇのか?」

 話を変えてそう問われて、 はありますよと答えた。

「きれいな紙を集めるのが趣味なんですよ。 千代紙や短冊、綺麗な手梳きの紙、模様を刷ったのなんかが好きでして、たまにそういうのを扱う店を覗いていいのがあれば買いますね」

 京はそういうこまこました物がおおいから、店を覗くたびに違うものに出会えてけっこう楽しい。
 あと、木辺などから根付けなどの小物を彫り出すのも時々する。

「あぁ、そういやぁ妙に手先が器用だったな。 八木さんとこの子供たちに竹とんぼや水鉄砲や、小せぇ弓とか刀のおもちゃをこしらえてやってたっけ」
「知ってましたか」

 その程度の道楽だから、滅多に懐が寂しくなるなんて事は無いのだが、山南の一件が起こる直前にポーンと刀を買ってしまった。
  はフと気になって、聞いてみる。

「土方さんには、何か趣味とか道楽ってのはないんですか? まさか仕事が趣味ってわけじゃないでしょう」
「お……俺か?」

 急に自分に鉾先が向いたことに、土方は思わず行李を押し入れに入れる手を止めた。

「んー、まぁ……近ごろはいろいろな本を読むのが趣味っていうかな。 遊里の女に受けるように、今度源氏物語でも読んでみようかと思ってるとこだ」

 どこか棒読みっぽい雰囲気が混ざるあたり、何か妙にごまかしを入れているようで怪しい。
  がぎくしゃくと作業を続ける土方の背中をジーと見つめていると、二人の背後、襖のほうで耐えかねたようにプッと吹き出す声がした。

「あっはははは………土方さん、今さら何を。 誤魔化した所ではじまらないでしょうに」

 ケラケラ笑う声に、振り向いた土方の顔にも物騒な笑みが浮かぶ。  は災難のとばっちりを避けてすっと横に体をよせる。土方が大股に部屋を横切って、むこうから笑い声のする襖をあければそこには沖田がいた。

「この人ね、句をひねるのが趣味なんですよ」
「何バラしてやがんだ! ……って何だその思いっきり意外そうな顔は」

 それが普通の反応ですよと、沖田はさらに遠慮なく笑い転げる。

「黙れこの阿呆! 伊東の奴だって和歌を嗜むじゃねぇか、俺だけなんでそう笑われなきゃならねーんだ」

 沖田の頭を小わきにつかまえて、こめかみを拳でグリグリとやりながらそう言えば、沖田は痛い痛いと笑いながら喚きながらも「ほら」と意味ありげに土方を見上げる。

「伊東さんは『いかにも』文学に親しむ雰囲気があるじゃないですか。そういう趣味があってもおかしくないみたいな。 けど土方さんが俳諧って……あいたたたたたた」

 かなり容赦なくグリグリとこめかみを抉られて、さすがの沖田も逃れようとじたばた暴れ出す。
 この面……もとい、この性格で俳諧と言われて もかなりほうけていたが、思い当たるフシがあってポンと手を打つ。

「ああ、八木さんとこにいた頃、沖田さんが何やら小さい帳面持って走り回ってましたっけ。 その後を土方さんが罵声あげながら追い掛けて」
「そうそう、それ。 この人の発句帳でさあ、 ちゃんに見せる前に取りかえされちゃったんだけれど」

 見られていたら恥ずかしくて死ねる、と土方は思いながらも、土方は沖田の口元を手のひらでがっちり塞いで に笑顔を向けた。

「五条、この部屋は途中でかまわねぇから新八あたりの部屋を手伝いに行ってやってくれ。 俺ぁこの阿呆にとっくりと説教してやらにゃあならないことがあるのを思い出したんでな」
「……はい」

 こういう時の土方に逆らうべからず。 それくらいは も学習していた。
 行儀わるく後ろ手に障子を閉めて廊下に出たとたん、江戸弁丸出しのべらんめぇな怒声が響いたものだから、とばっちりはご免とばかりに はそそくさとその場を離れた。
  の気配がしなくなると、土方は沖田の頭をもう一発ゴツンと殴ってから彼を解放した。

「いったいなあ、そうポンポン殴らなくたって良いでしょ」
「打った所でそれ以上悪くなりゃしねぇから安心しろい」

 一番隊の部屋割りと片付けは終わったのかと問われて、しっかりと終わったと沖田は答えた。

「今夜からだって巡察に出られますよ。他はもう少し片付けにかかりそうですけれど。 巡察に出るなら、隊の皆を今のうちに休ませますけれど、どうします?」
「ああ、そうしてくれ。 正式な巡察割は追って出す。それを出す前に一番隊の面々には特に休みを出すから今夜の所はちと頑張ってくれと言っといてくれ」
「わかりました。 それでね、土方さん」

  ちゃんの事だけど、と沖田は切り出した。
 沖田が心配していることは土方も気になっていたので、取りあえず座れと畳を指差して、差し向いで座る。

「引っ越しのどさくさあたりで逃げちゃうかなって思ったんだけれど……そういう様子はなかったね」
「お前まだ、あいつが新選組を抜け出すと思ってるのか?」
「ええ。 弟を心配するお姉さんの行動力、なめちゃいけませんよ」

 僕の姉の事を思い出せば分かるでしょうと言われて、土方は思わず頭を抱えた。
 女の足で在所からかなりの距離にある試衛館道場にやってくる事があった沖田の姉、ミツの行動力にはいつも驚かされたし、あの女性に口げんかで勝てた試しが一度もない。

「か弱いうちの姉でさえ、あれだけ思いきったことをするんですから。 型やぶりの最たる所の ちゃん相手に油断しちゃいけませんよ」

 あのおミツをか弱いと言うかとよほど突っ込んでやりたかったが、そこはぐっとこらえる。

「お前の言う事はわかる。あいつは雪村とちがって、多少なりとも新選組を裏切らない理由があるってわけじゃない。 その上、下手な相手をけしかけようものなら返り打ちにして出ていけるだけの腕も持ってるときた」

 けれど は弟大事のためだけに裏切ったりしないと、土方は考えている。
 確たる理由はないが、そう思うのだ。

「確かにあれを見られた上に山南さんの一件にまで関わっちまった以上、新選組はあいつを野放しにする訳にはいかねぇ。 ならばこちらからあいつが裏切らないだけの理由をつくってやるってのが、お互いのためにいいんじゃねぇか?」
「丸くなりましたねぇ、土方さんも」
「何とでも言いやがれ。 俺は隊のためを考えて言ってんだ」

 隊士の数が増えて、最初の頃よりは随分戦力的・人員的に余裕が出来たとはいえ が使える手駒であることにはかわりない。

「あいつには、雪村のように監視をおくのは逆効果だ。 隊のために働く気があるうちは、自由にさせておくのが一番いい。 けどな、もしお前の懸念している通りになったら」

 土方は、ひと呼吸おいて の出ていった障子を睨み、

「お前の思うように処分しろ。 長州のやつらに利用された場合も同じだ」
「本人には知らず知らずのうちに……って事もありますもんね。 よかった、本気で庇ったりしたらどうしようかと思ってたんですよ。 土方さんの御墨付きがあるなら遠慮なく斬れるね」

 屈託なく笑う沖田に、土方は眉間にシワをよせた複雑な顔で視線をむけなおす。

「お前なぁ……こういう判断は俺よりも近藤さんにもちかけろよ。 それが筋ってもんだろうが」
「駄目ですよ、近藤さんはなんだかんだで甘いから。 それにあんなのでも ちゃんは女性なんだし、斬るのはやりすぎだって絶対に言いますもん」

 近藤さんの性格じゃ、死人に口なしといくら説いたって納得しませんからと言い切られ、さすがに九つの年からの付合い、性格読んでやがるなと土方もため息をついた。

「ま、土方さんの意見も尊重して、使える内は使うってことにしときましょうか。 ああ、僕って優しいなぁ」
「用が済んだらとっとと隊の奴らの面倒でも見てこい!」

 またも怒鳴られて、沖田ははいはいと笑いながら立ち上がると悪戯が見つかった子供のように廊下を駆けていった。




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