羅刹女 ---37---


  鋭く空気を裂いた山南の刀は、薫の姿を捕らえきれずに終わった。

「やれやれ、獲物を逃したのは久しぶりです。 藤堂君、深追いはせずとも大丈夫ですよ」
「ちっくしょう!」

 藤堂は地団駄を踏んで悔しがったが、すでに周囲に薫の気配はない。

「後の始末は、鬼が鬼の手でつけることでしょう。 綱道さんとともに大それた事を起こした時点ですでにこの国中の鬼を敵に回しているのですから、逃げ場はありません」

 それに、と山南は目を細めた。
 藤堂と山南の刀は血に濡れている。 急所こそ逃したが、薫に深手を追わせていた。
 鬼といえど、傷の回復には体力を要する事には知っていた。
 以前 に深手を負わされたという不知火は、捕虜として船倉に閉じ込められていた富士山丸の中で、『体力を回復させるため』と、暴れもせず、与えられる食事を食べ、ひたすら大人しくしていた。
 山南が船旅の暇つぶしがてら船倉を訊ねて、 にどの程度やられたのか聞いてみると、不知火は『怖い姉さんだよ』と笑い、自分の身体を指してその時の事を説明してくれた。
 すでに身体に傷は跡形も残っていないが、腕を刀で串刺しにされ、それから逃れるために自分で傷を広げる形で刀を引っこ抜いた。
 顎を蹴られたから多少首の捻挫もしたし、腹の上に全体重かけて飛び乗られた時に肋骨が折れて内臓に刺さったという。
 聞いた山南のほうが、呆れてしまった。
 そこまでやった と、そこまでやっても平然としている不知火の鬼の血に。
 人間の目でみれば、命に関わってもおかしくない重傷だ。
 不知火曰く、血の濃い鬼の生命力をもってすればたいしたことはない怪我だというが、治すには体力がいる、体力を消耗して衰弱すれば動けなくなる。
 消耗しているときに大怪我をすれば、治すのに体力を使い果たして衰弱死することもあるから、鬼とはいえ無茶すぎる戦いはできない。
 体力の回復には食べて寝るのが一番と、捕虜の間ひたすら大人しくしていた。
 薫に負わせた怪我は、人であれば確実に死んでいる。
 その怪我を治すのだから、体力の消耗も尋常ではあるまい。
 不知火が負った怪我の具合からあれだけ大人しくしていた事を考えると、薫も身を隠して体力の回復を待たねば動けないと見ていいだろう。

 それに今は、また来るかもしれない災厄よりも、沖田の事だ。
 もともとかなり悪くなっていた病が、今夜の事で余計に悪化が早まるだろう。現に今も、緊張の糸が切れたのか昏倒してしまった。
 かつては剣の天才、人斬りと恐れられた新選組一番組長も、病の前にはただの人。
 神は沖田に、その才も、才を思う存分振るえる時代も、その才を捧げたいと思わせる人物も与えたが、ただひとつ、『時間』だけは与えなかった。
 何という皮肉、と山南は目を伏せたが、思い直したかのようにゆるく頭を振った。
 その様子を不思議に思った藤堂が首を傾げる。

「山南さん?」
「いえ……詮無い事を考えてしまったのですよ。 さあ、沖田君を寝かせなければ。五条君も大分参っているようですし、こちらは君に任せても良いですか?」
「わかった。 って、 、何だよその格好!」

 羅刹や薫と戦った後、そのまま山南の横に立っていた は、改めて自分の格好を見て「あ」と呟いた。
 洋装は汚れてしまったので洗って干したまま、沖田の寝巻きを借りて着たまま立ち回ったから、裾は割れて乱れ、胸の袷も大分弛んでしまっている。

「お、俺、先に総司を寝かしなおしてくるから! 頼むから着替えといてくれよ!」

 夜目にも分かるくらいに顔を真っ赤にしながら、慌てて靴を脱いで室内に上がる藤堂の背とまだ半分放心状態の を見比べて、山南は穏やかに微笑む。

「青春ですねえ。 では私は、平五郎さんに騒ぎと庭を汚してしまった事のお詫びに行ってきますので」

  の肩をポンと叩くと、山南は母屋に足を向けた。










 暫くして松本医師がかけつけてきて沖田の病状を看てくれたものの、意識を取り戻す様子は無かった。
 沖田の身体を蝕む病は、すでに手の施しようのない所まで進行しきっている。
 沖田の枕元に座った松本の目は厳しかった。
 反対側に座る山南を見つめ、押さえた声で、

「山南さん。 あんたは、羅刹化の支持者だったな。 この男を羅刹にするために来たのか」

 行灯の光を背にした山南の表情は影になり、読みづらい。
 彼が影の内で穏やかに笑み、沖田に視線を落す様子を松本はじっと観察していた。

「その意思があるかを、沖田君に確かめるつもりで来たら、予想外の修羅場に出くわしたという訳です。 ……最後の機会になるでしょうから」
「鳥羽伏見で散々にやられても諦めてねえってのは聞いてたがねぇ」
「江戸が新政府軍の手に落ちても、まだ戦う意思を持つ者は沢山います。 そういった者たちは転戦を続けていくことになるでしょう。 新選組も、また」

 そうなると、病身の沖田は新政府軍の支配下におかれた江戸に置いてゆかねばならなくなる。
 万が一にも新選組の沖田だと知られたら、一体どういう扱いを受ける事になるか、想像もしたくない。

「すでに沖田君には変若水を渡してあります。 きっと今も持っている事でしょうが、今までそれを使わなかったとなると、迷いがあるのか、それとも使わないと決めているのか……」

 山南の言葉に被るように廊下で小さな足音がしたかと思うと、洋装に着替えた がやってきた。
 山南の少し後ろに控えるように座りながら、 は沈んだ声で沖田の意思を告げた。

「沖田さんは、変若水を飲まない事に決めています。 たとえこのまま死のうとも、捕虜になって犬以下の扱いを受けようとも」

 松本も山南も、驚いて を見つめた。
  は、顔を伏せたままズボンの膝をぎゅっと握りしめる。
 拳が、震えていた。

「何があっても、どうなっても、『飲まない』、と……」

 飲めない、ではなくてあくまでも『飲まない』と強調した。
 薫が言ったことが本当なら、沖田は決して変若水を飲む事はできない。
 羅刹は、大切に思う者の血ほど美味に感じる。血に狂って正気を失った時に大事な者が側にいたら、その喉元に食らい付く事を押さえる事は難しい。
 襲われても斬り捨ててくれるような相手ならまだいいが、沖田の敬愛する近藤は、決して沖田を斬る事ができないだろう。

「……本当ですか? それが、沖田君の意思なのですか?」
「……はい」

 うつむいたまま、 は頷いた。
 短い一言だというのに、涙がこぼれないのがいっそ不思議なほど声が震えている。
 気丈かつ、意思の強い がこうも思いつめるほどの事なら、山南もそれ以上追い込んで聞くまいと思った。

「……大丈夫ですよ、無理に飲ませたりしません。 変若水を飲むのは、あくまでも自分の意思があるところで行われるべきです。 新政府軍のように、人をあつめて軍命で飲ませるなどやって良い事ではないのです」
「山南さん……?」
「だから、そんな顔をしないでください」

  を慰める山南の言葉や様子の中に、松本は彼の言葉が嘘ではないことを感じていた。
 以前の彼なら、新選組の強化のためには変若水をもっと有効的に使うべきと主張していただろう。
 沖田にも充分迷う時間は与えたのだし、戦力として連れて行くためには飲んでもらわなければ困ると、無理にでも口をこじ開けたに違いない。
 真っ白になるほど握りしめた の拳の上に置いた手は優しく、行灯の頼り無い光の中でも、相手を気づかう穏やかな笑顔は本物なのだと見てとれる。

「……沖田君にその意思があるなら、意地でも意識を取り戻すでしょう。 そして持っている変若水を飲んで、私達の後を追い掛けてきますよ」
「……」
「私達はあくまでも、確かめに来ただけです。 沖田君の命は、沖田君の意思で使うべきものです」
「それでさ、

 山南の言葉が落ち着いたのを見て、それまで黙っていた藤堂が遠慮がちに話を出した。

「総司の様子を見にきたことも本当だけどさ、もうひとつ切羽詰まった用事ができちまったんだ。 新八っぁんと左之さんが新選組を出ていくって言い出したんだよ」
「は!?」

 藤堂の言ったことが信じられない、と は素頓狂な声を出していた。
 あの二人、甲州で負けた上に薫に精神的に畳み掛けられて参っている所を支えてくれ、沖田の所まで一緒に来てくれた。
 先に屯所に帰ってひと休みしているのとばかり思っていたのに、自分が沖田の所にいる数日の間に何が起こったのだろうか。

「本人たちは、近藤さんとの意見の食い違いって言ってる。 俺も何でだって聞いてみたんだけれど、その一点張りでさ。 も話を聞いてみてくれないか?」

 ぐい、と身を乗り出してすがりつくような目を向けて来る藤堂の様子からして、深刻な状況らしい。
 山南も難しい顔をしている。

「新選組としては、この大変なときに彼等に離脱されては、戦力的にも大変な痛手になりますし、創立以来の幹部がここに至り近藤さんのと意見を違えて離れていくということは、ただの離脱以上に大きな影響を及ぼすこと、君なら分かるでしょう」

 分かるもなにも。
 負け戦が込んで士気がガタ落ちの所へ創設以来の幹部二人が『局長を見限って』出ていったとなれば、絶対に後を引く。
 新選組にはもう先はないのだから、早めに逃げ出してしまおうと考える者は後を立たず、それを止める手段も力も新選組にはすでにない。
 かつて局中を鉄の箍で締めていた局中法度もほとんど有名無実であることを隊士皆が感じている今、永倉と原田の離脱は伊東の分離の時以上に大きな影響をもたらすだろう。

「永倉さんたち、今どこに?」

 とにかく会って話を聞かねばと は立ち上がった。









 あれだけやられて帰ってきたのに、元気な事だと感心するべきか、それとも呆れるべきか。
 永倉たちは、何と吉原遊廓にいるという。

「……少し待たせてもらって良いでしょうか」

 永倉の知己であるという芳賀家にそう頼み、彼等が戻るまで座敷で待たせてもらうことにした。
 世に名高い吉原遊廓をひと目見物したい気持ちはあったが、あそこは京の島原や大坂の新町とは違い、女の出入りを徹底的に制限している。
 軍装はしているが、万が一にも女とばれて騒ぎになっては厄介だし、新選組の者だと知られればもっと厄介な事になる。
 夜半近くなって二人が戻って来たので、 は彼等を迎えに出た。

「おかえりなさい」
「うぉっ!  !?」

 白粉の匂いと酒精の匂いをまき散らしながら上機嫌で帰ってきた二人は、玄関の衝立の前に仁王立ちになって待ち受けていた の姿を見るなり、弛んだ表情を引き締めた。

「あーー、やっぱり、聞いたんだな」
「二人が新選組を離れた、という事だけは」

 玄関に降りて、 は永倉たちと同じ場所に立った。

「それ以上の事は、聞いてきませんでした。 あなたたちから直接聞くまでは、何もわからないから」

  はひた、と永倉と原田の瞳を見つめる。
 彼等がただヤケや喧嘩で飛び出したのか、譲れない一念あって離れたのかを見極めるために。

「あのとき、新選組に愛想をつかした訳じゃなければここにいろ、そう言ってくれたのは本気でしょう」

 甲州で薫率いる新型羅刹に包囲され、絶体絶命の危機の中、 は薫とともに行けば新選組を見のがしてやると取引きをもちかけられた。
 我が身ひとつで危機を脱せるならば安いものと、取引きに応じようとした を、安い口車に乗るなと諌め、ここに居ろと言い切ってくれたのが、他でもない、永倉と原田だ。

「私は、近藤さんや土方さんに、二人を連れ戻せと命令された訳でもなければ、山南さんや平助君が困っているのを見かねた訳じゃありません。 私は私が聞かせてもらいたいから、ここに来たんです」
「わかった」

 なおも言葉を重ねようとする の目をひたと見つめ、原田は頷いた。

「お前にゃ、話しておくべきだな。 総司の所から直接来たのか?」
「ええ」
「けどな、俺たちはお前が納得するような答えを聞かせてやれるとはかぎらねえぞ。 あんな台詞を言った手前、どういう事だと怒らせる事になるかもしれん」
「……それでも、聞かなければ何もわかりませんし、始まらないでしょう」

 覚悟くらいはできていると呟く の表情は、固く強ばっていた。
 二人が借りている座敷にあがると、小さな灯りをひとつだけともして、三人は違いに向かい合う形で座った。
 まず が、沖田の病状と薫の襲撃事件、二人の離脱を知った経緯を話すと、永倉も原田も驚いた表情になる。

「そうか……不知火が」

 殺しても死にそうにねえくらい、ふてぶてしい野郎だったのにな、と原田は表情を曇らせる。
 何かと因縁のある相手だっただけに、甲州で作った借りを借りっぱなしというのは気分が晴れないものだったが、相手があの世まで先走りしてしまったのでは返しようがない。
 薫を撃退できたのも、沖田が無事だったのも山南をはじめとする新選組の羅刹たちが偶然訪れてくれたからにすぎず、自分何も出来なかったと は肩を落とした。

「辛気くせぇ顔してんじゃねえよ。 運も実力のうちっていうだろが! ほらっ、シャンとしやがれ!」

 肩を落す の背を、永倉がドンと叩いた。
 軽く咳き込んで恨みがましい視線を向ける に、永倉は京に居た頃と変わらぬ笑顔で笑いかける。

「俺たちのほうだけどな、一緒に総司の所に転がり込んだ後、お前さんが揺すっても叩いても起きないから、そのまま寝かしとけって事にして先に帰ったんだよ」

 鼻つまんでも起きないもんだから、総司も笑ってたと話してやると、 は柄にもなく頬を染めて恥ずかしがった。
 甲府の戦でそれくらい疲れていたということだろうが、そんなこと、沖田は一言も言わなかったではないか。

「俺はやってねえぞ。 悪戯したのは新八だ」
「おいおい、笑った時点でお前も同罪だろ左之。 ともかく、甲府の戦で生き残った連中はそれぞれこっちに戻ってきたんだ。 近藤さんも、斎藤も無事だったし、土方さんも戻ってきた」

 無事に安全圏まで戻ってこられてホッと一息。
 甲州では負け戦だったがもう一度人員と装備を整えて隊を整えようとしたのだが、甲州の戦で、援軍が来るという嘘の情報に踊らされて、散々な目にあった隊士たちの不満が爆発した。
 装備は旧式、練兵のれの字もできていない寄せ集め軍だった事だけでも不安要素が一杯だった上、戦場に辿り着くまでに、悪天候で気力体力を奪われ、軍規は弛み、戦の前から脱走者が続出して士気も落ちる所まで落ちていた。
 対する新政府軍は兵の練度も高く最新装備に身を固め、兵力差は十倍以上。
 十倍の兵力を持つ相手に、本陣にするはずだった甲府城を取られた時点で戦を諦め引き返さなかったのは、ひとえに『幕府の期待を裏切れない』という近藤の希望だった。

ちゃんも、覚えてるだろ。 鳥羽伏見じゃ、銃砲に散々やられた。 近藤さんがそれを体験していない事をさっ引いてもだ、あの人は幕府の期待に応えるっていう体面を重視するあまりに、判断を誤った」
「ええ……戦にならないから引き返そう、と主張したにも関わらず、近藤さんは敵と矛を交える事もなく退くなんて出来ないって」
「そうだ。 総大将の近藤さんがあくまで戦を主張する以上は戦わなきゃならねえ。 このままじゃ壊滅する、そう思ったから土方さんも援軍を頼みに走った」

 いくら戦をすると頑張っても、不利な状況は覆しようもない。
 土方が援軍を頼みに行っている間に、近藤が考え直して撤退してくれればまだ良かったのだが、近藤自身が『背後に会津の援兵が控えているから安心して戦え』と兵に触れ回ってしまったのだ。

「負け戦と分かっていても戦わなきゃならねえ時は確かにある。 けどなあ ちゃん。兵の命を無駄死ににする事は、将として一番やっちゃいけねえ事だ。死ぬなら死ぬで、そいつの死に意味を与えてやらなけりゃ、報われねえだろ」

 味方を守るため、殿をつとめて死ぬなら名誉の戦死だが、将の無理な作戦のために突撃を強制されて死ぬのでは雲泥の差だ。

「隊士たちは無茶な戦をやらされただけでも頭に来ている。さらに来るはずだった援軍も来ねえ。土方さんが裏でどれだけ駆け回った、苦労したとしても、あいつらにしてみりゃ『援軍が来るから』の嘘に騙された事だけが事実なんだ。文句も出るってもんだぜ」

 ここまで一気に話して、永倉はフゥと溜め息をついた。
  にも、永倉の言いたい事はわかる。
 実際甲州での戦は酷いものだった。
 丸っきり大人と子供の喧嘩だったし、味方が壊滅寸前になっても近藤は退くのを躊躇っていた。

「兵の信頼を踏みにじる、それが将としてやってはいけないことなのは私にだってわかる。 けど、それだけ?」

 どんな名将とて一度や二度の失敗はあるだろうし、その失敗あってこそ兵を無駄死にさせない将になれるのではないかと は反論した。
 自分よりもずっと長く、近藤の側にいて彼の人柄と将器を見続けてきた二人が、この程度で近藤を見限るとはどうしても思えない。
 むしろ、『この失敗で、西洋式軍隊と銃砲の恐ろしさが身に染みただろうし、死なせた兵の命を無駄にするな』と、今後とも支えていこうとするはずだ。

「もちろん、それだけじゃねえさ」

 永倉は重々しく腕を組み、ぐっと眉間にシワをよせた。
 よほど腹に据えかねる事があったようだ。

「あの人は、俺らを臣下あつかいしやがった。 俺らは甲州の事や今後の行き先について、同志として意見しようとした。 そしたら、同じ立場じゃねえ、明らかに下に見て、俺らはあの人の判断に従っていりゃあいい、賢しい意見なんざ無用だって態度を取りやがったのさ」

 俺はあの人と志を同じくする仲間ではあっても、臣下になった覚えはねえと、永倉は鼻息も荒く毒づいた。
 何も言えずにポカンと口を開けている に、今まで永倉が話すに任せていた原田が、

「もともと俺たちは、近藤さんの人柄に惹かれて集まったようなもんでな」

 そう言って、 が知らない、多摩地方の貧乏道場の主人だった頃の近藤の話をしてやった。
 その頃の近藤は、おおらかな人柄と困っている人を放っておけない優しさ、また夢を真剣に語る情熱を持っていた。

「……今でもその根は変わっていないと思うし、何があの人を変えちまったんだろうなんて、野暮を言う気はねえ」
「なら、どうして……? いよいよ『愛想がつきた』んですか?」
「そうじゃねえよ。  だって、家族や友達だと思っていた人が、自分の事をそう思っていなかった、なんて分かったら悲しいし、やるせねえだろ?」

 納得して、 は頷いた。
 どうやら近藤は、軍を率いる将としてだけでなく、友人に対してもやってはいけないことをしてしまったらしい。
 中には、これでも許す心の広い人間もいるだろうが、永倉や原田にとっては、今までの友情をもってしても許せない事だったのだ。
 自分が言える事はない、という様子で顔を伏せてしまった の背を、永倉は今度はポンと軽く叩いた。

「……甲州での間違いを認めて、ひとこと悪かったって言ってくれりゃそれでよかったんだ。 けど、あの人の口から謝罪はおろか死なせた兵の命を悼む言葉すら出てこなかった。 これを許しておくのは、本当の友達じゃねえだろう?」

 もうあの人と一緒にやっていく事はできないが、憎んでいる訳でも敵対する訳でもない。
 進む道は分かれたが、目指す場所は同じってことで勘弁してくれと、永倉は泣いている子を慰めるように何度も の背を叩いた。

「そんな顔するなって。 何も今生の別れってわけでもねえし、新政府軍につくなんて事は絶対にねえ! どこかでひょっこり会う事だってあるかもしれねえだろ?」

 別れを淋しいと思ってくれることは嬉しいが、泣かれるのは困る。
 永倉はふと思った。
  もすでに、新選組にとどまる理由は果たしている。
 人探しに協力してくれた恩を返さないうちは新選組に留まるとも聞いていたが、恩ならば京での働きに加え、鳥羽伏見に甲州での戦と、釣りがくるくらいに働いて返したと思う。
 ならば、今新選組に留まり続けているのは彼女自身の判断なのだろうが、その理由を聞いてみたくなった。

「なあ、逆に俺も聞いてみたいんだけれどよ、 ちゃんは何で新選組に留まり続けるんだ? 弟を探してもらった借りなら充分返しただろうし、その弟も立派に一人前の男に成長した。 だったら、新選組に留まり続ける理由なんてねえだろ、俺が言うのも何だけどさ、命知らずと馬鹿と化けモンの巣窟だぞ?」

 あんまりな言い様に、深刻な話をしていたことも忘れて はプッと吹き出してしまった。
 沖田もだったが、どうやら永倉も自分が新選組に入る事になった当初のことをすっかり忘れているようだった。

「永倉さん……私、変若水で狂った羅刹を見ちゃった上に、彼等を斬っちゃってるんですよ。 それをばらされちゃ困るから、新選組に留まる事になったんじゃ?」

 新選組にとって見られたらまずい、ものをしっかり見てしまった上に、普通は斬れないもんを斬ってしまった事で随分警戒されたものだ。
 万一、 を逃がしたら羅刹の事を口外されるかもしれない、そうなったら新選組の存続にも関わる。
 新選組も、監視の目的あって を新選組の内に置く事にしたのではなかったか。
 少しでも新選組にとって都合の悪い行動を取ったり、秘密を口外するような素振りをみせれば、即座に斬られかねない状況だった。

「その状況は、今だって変わっていないでしょう」
「だ、だからってよう……」

 永倉の戸惑いは、そんなことなど今の今まで忘れていたことをありありと物語っていた。
 実際、すっかり身内の気でいたのだ。
 羅刹や変若水のことを差し引いても、 が新選組を裏切るなど考えられなくなっていた。

。 あんまり意地悪をしてやるな。 新八も、こいつが今でも本気でそんなつもりでいるはずがねえだろ」

 困り抜いた永倉の様子に、原田が助け舟を出してやる。

「けどよ、 。俺も理由が知りたいぜ。 新選組にはもう、秘密を見たからといって離脱する人間を止める力は残ってねえ。 俺たちがこうしてここにいるのが良い証拠だろ」
「……」
「もう、京に来た頃のように、油断したり、背中を見せれば殺されるような状況じゃねえはずだ。 お前だって、ここに至って俺たちがそんな真似をするとは、思ってねえだろう」

 原田の言う通り、当初の関係から状況はかなり変わったと思う。

「だったら、何でだ?」
「……」

 心の奥まで見通してきそうな原田の視線を受け止めて、 はもう一度考えてみた。
 逃げたら殺される、殺される訳にはいかない理由があった、受けた恩を返す、そのみっつを取り除いてなお、自分が新選組に留まる理由を。

「……」

 ところが、考えても出てこなかった。
 はて、と首を傾げてしまった の表情に、男たちのほうが察してしまった。
  の表情はひどく幼くて、京にいた頃など見た事もなかった。
 新選組は にとって、とっくに『帰るべき家、守るべき家族』になっていたのだろう。
 京を離れる頃から、今までになかった感じの笑顔や態度が増えたと思っていたが、こうも無防備な顔をされてしまうと、言う事がなくなってしまう。
 守るべき家族が手を離れた事で、幼い頃から常に守り手の立場だった が、今になって幼い頃をやりなおしているような様子さえ見える。
 だから、自分たちの離脱も、大人としての は理由を聞こうと必死に平静を装い、幼い心は怒るよりも離れていくのが悲しい、淋しい、そういった態度を見せる。
 離れていくなど組織の一員として許さない、そんな台詞は一言も言わずに。

 原田は、心が温かく綻ぶのを感じた。
  が自分たちを心の底では家族と思っていてくれたこと、離れていこうとする今も、そう思ってくれているだろう事に。
 原田は、ささやかな夢を持っている。
 何も、大名になろうとか、一山あてて財を築こうとか、だいそれたものではない。
 愛する女と、当り前の小さな家庭を持ちたい、愛情に溢れた家族に囲まれながら人生を過ごしたい、そんな夢だ。
 畳み掛ける早さで流れる時勢がそれを許さずとも、ずっと新選組の仲間たちを家族だと思ってきた。
 だから、近藤に家族ではなく『お前は臣下だ』という態度を取られた時、あんなにも悲しくやるせなく、 がこうして来てくれたことに、心が暖まる。
 道を違えても、原田はまだ近藤のことを、友達で、家族だと思っている。
 敵にだけは回るまい、そう決めてはいるものの、二度と会えないだろう別れ道を自ら選んだ以上、引き返す訳にはいかない。

 新選組という家から次々と家族がいなくなり、いくら が寂しいと思い、別れを悲しんでも。
 自立した男が道を選ぶというのは、覚悟あってのことだと もすでにわかってくれているはずだから。
 原田は、槍を握り続けてタコだらけになった手を、ポンと の頭に置いた。

「わかった、新選組のほうはお前に任すよ。 死ぬまで一緒に居ろって意味じゃないぞ、お前もお前の道を見つけたら、俺たちと同じようにその道を行け、いいな」

 ヤケになって、共倒れだけはするなと原田は優しく微笑んだ。
 服装を洋装にあらためても長いままの髪を、クシャリと掻き回して、

「何、辛気くさい顔してんだ。 新八も言っただろうが、今生の別れでもねえし、新政府軍につく事だけは絶対にねえって!」
「……」
「俺たち、家族だろ。 離れていたって、同じ空の下にいるって思えば淋しくねえ、あいつもどこかで頑張ってるって思っててくれりゃいい。 な?」

 兄が幼い妹を慰めるような構図をだ。永倉はちょっと潤んだ目元を擦って誤魔化して、

「左之もたまにゃあいいこと言うよなぁ」

 などと、ここに藤堂がいたら、『新八っぁんだけには言われたくねえと思う』という突っ込みが即座に入るだろう台詞を吐いた。









  の訪問は、結局、永倉も原田も新選組に戻る意思はないことを確かめるだけに終わった。
 山南は不満に思うだろうし、彼等と特に親しかった藤堂は寂しがるだろう。
 けれど、彼等が自分で決めた道なのだからと説得すれば、きっと納得してくれるはずだとも思った。
 芳賀家を辞去するとき、永倉も原田も、道路まで出て が『家』に帰るのを見送ってくれた。
 必ずこの戦を生き残ってまた会おうと二人と約束し、 は振り返ることなく屯所へと戻っていった。

 この別れが、原田との永遠の別れになった。
 原田はこの後、靖兵隊を組織し北へ転戦しようとする永倉とも袂を分かち、二ヵ月後の上野戦争で彰義隊に入隊し、激戦の中傷を負い、負傷が元で二日後に息を引き取った。
 後年、風の噂で『新選組の原田は上野の戦いを生き延びて大陸に渡った』という話も出たが、明治の世まで生き延びてその噂を聞いた新選組隊士たちは、あの人らしいと苦笑を零す。
 ともに新選組を離れた永倉とも袂を分けた理由。
 戊辰の役をくぐり抜けて、明治四年まで存命した永倉だったが、晩年、袂を分かつ前の原田が、随分思いつめた様子をしていたのを、こう語る。

「家族が沢山、あっちで死んじまったからな。 戦い続ける事も出来たんだろうが、あいつは優しかったから、家族の魂やそいつらの思い出が眠る場所を、離れ難かったんじゃないか」

 これは想像だがと付け加えて、

「あいつがどこへ戻りたかったのかはわからねえが、あの当時は官軍の目をかいくぐって京に戻るなんてのは不可能だ。 せめて、あの貧乏道場の思い出がある江戸の地で、彰義隊に身を寄せたんじゃないか? 家族思いのあいつのことだ、無念を飲んで死んだ連中の代わりに、将軍様のお膝元の江戸で、派手に暴れて逝ったんだろうよ」




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