羅刹女 ---36---
江戸、千駄ヶ谷にある植木屋・平五郎宅の離れが、病を養う沖田の療養場所だ。
少し体調が良いからと、縁側に出て刀の手入れをしていた沖田は、裏口からのっそりと入ってきた人影に警戒を見せたが、それが永倉や原田、
だとわかると眼を丸くして驚いた。
彼等の姿は、煤や泥にまみれ、返り血を浴び、酷くくたびれた様子だった。
「よう、元気そうだな総司! ちょっと邪魔するぜ」
「顔色いいな、安心したよ」
「ただいま……」
疲れているなりに笑顔を見せる3人に、沖田はとにかく上がれと部屋の障子をあけた。
松本がいたなら、病人の部屋に、不潔極まる姿で上がり込むとは何ごとだと雷を落されそうだが、それを気にしている余裕がないほど、三人は疲労困ぱいしていた。
鳥羽伏見からの、敗戦につぐ敗戦、裏目裏目に出る選択、ここに来て祟る変若水と羅刹の研究の影響……様々なものにうちのめされて、三人は肉体以上に精神的な疲労が強かった。
それでも戦場では何とか立っていられたが、仲間、身内の気安さか沖田の顔を見たとたんに疲れがドッと溢れ出した。
体力自慢の永倉が倒れるように畳の上に転がり、原田も上がり込むなり崩れ落ちるように柱にもたれて座り込む。
もへたり込んでしまい、そのままパタリと倒れて眠ってしまった。
驚いたのは沖田のほうだ。
男のほうは放っておいても大丈夫だが、
をそのまま転がしておくわけにもいかない。
衣紋掛けにひっかけてあった綿入れの着物を取ると、泥だらけの洋装軍服の上からそっとかけてやる。
今まで、どんなに厳しい状況でもこんな不様を見せた事がない
が、自分の前でこうも無防備に倒れ込んでしまう状況だけでも驚きだが、そうなるだけの事があったのかと、沖田はまだ何とか眠らずにいる永倉と原田を交互に見比べた。
「ひっでえ敗け戦だったよ」
「新型羅刹まででやがるしな。 よくまあ生きて戻れたもんだ」
詳しい話は取りあえずひと眠りさせてもらってからということになった。
二刻(4時間)ほどして
が目覚めると、時刻はすでに夕暮れに差し掛かっており、永倉と原田は先に出ていった後だった。
畳の上で寝てしまっていた自分に気付いて、
は慌てて起き上がる。
「目がさめた?」
笑いを含んだ声がしてそちらを向くと、沖田が布団の上に座って下半身にだけ布団をかけ、膝の上に本を広げるといった格好でそこにいた。
「沖田さん!?」
「そ、僕」
沖田の顔あらためて見て、ここがどこなのか、どういう経緯でここにやってきたのか思いだす。
甲州で散々に負けて、撤退の最中にあろうことか薫率いる新型羅刹の群れに囲まれ、追い掛けてきた不知火の手助けで危ない所で脱出に成功、あとは新政府軍の追撃を逃れて体力の続く限り江戸へひた走った。
途中、一度宿場で休憩を入れ、沖田の所へ戦結果の報告を兼ねて向かったはいいが、馴染みの顔を見たとたんに安心して気が抜けて、一緒に来た永倉たちともどもばったりと倒れてしまった。
は泥だらけ、煤だらけの顔を赤面させつつ起き上がる。
「おはずかしい所を見せちゃって」
「動かしたら起こしちゃいそうだからそのまま寝かせておいたけど。 体を洗って着替えておいで、すごい有様だよ」
「……確かに」
途中の宿場で休憩を入れた時は、とにかく僅かでも食べて体を休める事を優先したので、その余裕がなかった。
僕のでよければ、寝巻きと羽織があるから使うといいという沖田の言葉に甘えて、
は井戸端で顔と体を洗わせてもらい、借りた着物に着替えた。
洋装軍服もざっと水洗いだけして、適当に吊るしておいた。
乾くのは明日になるだろうから、今夜は沖田の所に泊まる事になりそうだ。
さっぱりとした格好になって沖田の部屋へ戻った
は、部屋が随分暗くなってきていたので行灯に火を入れてやった。
ぼんやりとした光が室内に広がり、黄昏とは別の陰影を生み出す。
「……おかえり」
背後からそう声をかけられて、
はハッとなって振返った。
布団に座り、柱にもたれた格好の沖田が、見た事もないような穏やかな微笑みを浮かべてこちらを見ている。
「新八さんから聞いたけどさ、随分負けたんだって?」
「散々、でしたよ」
沖田とは対照的に苦笑を浮かべて、
は布団の側に陣取る。
「流石に、皆の足手纏いになるって分かった時にはここまでにしようって思いもしましたけれど……戻ってこれたのは、これのお陰です」
は手元に引き寄せた自分の荷物の中から、沖田に借りた脇差しを取り出した。
「変な死に方したら弔辞で何を言われるか分かったもんじゃない、ってのと……それとは別に、この刃を覗き込んだ時に、沖田さんの声が聞こえたような気がしましたよ」
それのおかげで、生きて戻ってこれたようなものだと
が言うと、沖田は穏やかな笑みのまま頷いた。
「
ちゃん、変なところで割切りが良いし、諦めも良いから。 何がなんでも死ねないって思える何かがないと、簡単にあっちに行っちゃいそうで、見てると怖いからね」
「……そんな事、思ってたんですか」
「そうだよ。
ちゃんてさ、守るものがあるときって恐ろしく強いけれど、身軽になっちゃうとそうでもなさそうだって気付いたから」
もちろん、純粋に剣の腕は信頼している。
心配しているのは、精神的な面だ。
出会った頃、化け物としか思えない羅刹に殺されかけ、見てはいけないものを見てしまったからと人斬り鬼の巣に連行されて処断されてしまうかという所になっても諦めが悪かった。
新選組と居る事になってからも、たびたび命の危機に晒され、屯所暮しも気が休まる余裕も少なかっただろうに、ここで死ぬものか、殺されてたまるかという意思をいつも強く感じた。
からかいもしたし、役立たずであれば殺すと脅しもしたけれど、剣の腕も、揺らがない意思の強さも好ましく感じていた。
なのにその意思の強さが、京を離れる頃から随分と不安定になっていた。
病で寝付いていることが多くなり、そのせいで人を観察し、なおかつ考える時間も増えたからだろうか。
の『揺らぎ』が日に日に大きくなるのが、手にとるように分かった。
『揺らぎ』の元が何であるかにはっきりと気付いたのは、鳥羽伏見の戦の中、千鶴が行方不明になってからだ。
妹のように可愛がっていた千鶴が、上方を離れる段になっても生死不明のまま見つからなかった時の
は、気丈に振る舞ってはいたが酷く落ち込み、千鶴を守れなかったことを気に病んでいた。
自分は鳥羽伏見の戦に参加することはできなかったが、戦える者もそうでない者も、新選組は誰もが自分に出来る事を出来る場所で精一杯やったであろうことを確信していた沖田は、
のせいではないと声をかけようとした。
だが
の瞳を覗き込んだ時、安い慰めごときで
の心を落ち着かせる事はできないと思いとどまった。
の目の光は失われ、今まで見た事もないくらい澱んでいた。
その時に確信できた。
の心を強くするものと揺らすものは、『守るべき存在』なのだと。
それが実の弟であり、千鶴であったという事だ。
だが、弟は一人前の男として戦えるようになり手から離れ、千鶴は守りきれないまま行方知れず。
守るべきものが手から離れていったなら、自分自身として生きれば良いものを、それが出来ないのか出来ると思っていないのか……。
下手に剣の才があり、その才を生かせる環境があった分、自分は戦い、守る側だという事に慣れすぎてしまって、『自分のために動く事』と『守られる側として』の戦いを、
は知らないままなのだ。
微笑ましい、言って直る、という段階ではすでにない。
そのままで良いはずがないのに、どこまでも、『守り手』であり、『姉』である
に、もどかしささえ覚えた。
「……僕も君の脇差し、預かってたね」
お互いの脇差しを返しあうと、沖田は疲れたように布団に身を横たえた。
の手が布団を肩まで上げてくれるのに微笑みを向け、
「ねえ、
ちゃん。 僕はどうやら、ここまでのようだから。 近藤さんを、土方さんを……新選組を、お願い」
「え、でも私は、ただの……」
「部外者、なんて今さら通じないよ。 大体、あんな手間のかかる人たち、今となっては君の他に誰に頼めるっていうのさ」
「手間のかかる、のとこだけは……」
「否定できないでしょ?」
悪戯っぽい沖田の声音に、
は思わず苦笑し、頭を押さえていた。
まったくもってその通りで、否定の言葉が見つからない。
「嫌じゃないなら新選組に居ろって、永倉さんたちにも言われました」
「そうそう、そんな感じでいいから」
「いいんですか、そんないい加減な感じで」
うん、と沖田は頷いた。
「もう、どこにも行けない僕の代わりってわけじゃないけれど、あの人たちをお願い」
近藤のため、新選組のため、その一念で戦ってきた沖田には良く分かる。
戦場に行く前に託した脇差しは、いっとき
を生かしはした。
けれどそれだけ、あくまで『いっとき』ということにすでに気付いていた。
これからも戦い、生きていくだろう
を支える力は自分にはもうない。彼女と同じ戦場には立てない。
守る事ばかりで己を顧みない
の背が空かないように共に進む事は、できない。
ならば。
守るべきものがあることで、
が生きる気力を取り戻せるならば、もうここから動けなくなる自分の大事なものを、彼女に託そうと思った。
近藤が、土方が、新選組が……自分が何よりも大切に思っていた居場所が、
を生かしてくれるように祈りを込めて。
いつか、彼女が人間としても守り手としてもひと回り大きくなり、自分自身のために戦い、生きる道を見出せるように願って。
そうすれば自分も、彼女の心の中に息づいて、どこまでもともに行ける気がした。
暫くの沈黙の後、
がしっかりと頷いたのを見届けて、沖田は目を閉じようした。
静寂が落ちようとした、その時。
不意に障子の向こうの木々がざわめいた。
そのざわめきに混じるものに、沖田と
の背を、瞬時にゾッとする何かが駆け上がる。
「
ちゃん、刀!」
「はい!」
小声だが、鋭い沖田の声に
は即座に応じる。
沖田は、刀掛けにあった大刀を取ってもらい、布団の上に膝立ちになると鯉口を斬った。
うすら寒いこの殺気、ただ事とは思えない。
衰えたとはいえかつては人斬りとして京の大路小路を震え上がらせた身、抜き打ちで狼藉者のひとりくらい討ち果たす力は残っている。
も肩にかけていただけの羽織を脱ぎ捨て、白の寝巻き一枚というあられもない格好ながら刀を持ち障子のすぐ後ろで気配を伺う。
「(団体様だ)」
「(ったく……不粋な奴ら)」
沖田は、行灯の明かりの中、
の唇の動きだけで敵が複数なのだと知った。
視線だけで、灯を消すかと
に問いかけるが、
は小さく首を振った。
ここで灯りを落しては、外に何かいることに気付きましたと知らせるようなものだ。何にも気付いていないようなフリをしていなければ、初手の有利を握れない。
は呼吸を整え、音をさせぬように鯉口を切る。
ここを知る者は少ない。
訪れてくる者は敵か味方しかいないし、味方であれば病人の寝床と知ってこんな殺気をあからさまにぶつけてはこない。
徐々に近付いて来る気配に、
が障子ごと抜き打ちに斬ろうと息を吸い込んだ時――
「俺だよ。 そんなに殺気だたなくても良いじゃない」
「薫……さん?」
聞き覚えのある声に、
は静かに障子を開ける。
障子をあけると、雨戸を閉めていないので幅の狭い廊下の向こうはすぐ庭になっている。
家が植木屋なので庭はそこそこ広く、垣根の周囲には根を筵で巻いた植えつけ前の木や、鉢植えなどが並んでいる。
その後ろには主人が丹精こめて育てた木々が枝を伸ばしており、それらの植物が月明かりに照らされて陰影を生む中、なおいっそう濃くわだかまる闇が目の前にあった。
「ふうん……もっと打ちのめされてるかと思ったけれど。 意外に元気そうじゃない?」
黒の洋装をまとった薫は、
の姿を認めて微笑んでみせた。次いで、
の背後に視線をやり、布団の上の沖田に嘲りの籠った視線を向けた。
視線に気付いた沖田はその意味を知って歯噛みするが、今の自分に余計な体力を使う余裕がないことは誰よりも分かっている。
構えを低く取る
に、薫はやめてよ、と両手を軽く上げてみせた。
「何でこの場所を知ってるかって言うことなら、個人的にちょっと追い掛けてきただけだから気にしないで。 新政府軍にはばれてないから」
「その言葉が信用できると思う?」
「新選組の沖田の首なら、新政府軍にとっては死体を墓から掘り起こしてでも晒しものにしてやりたい相手だよ? 居場所がわかれば病身とはいえ生きてる状況を捕まえて斬首に持ち込める、それを黙っている所に誠意を感じてほしいな」
「……用件は?」
「甲州の時と同じ。
さんにちょっと顔を貸して欲しいだけだよ」
来てくれるよね? と、薫は小首をかしげた。
同時に、物陰からゆらゆらとした足取りで新政府軍の軍服を着た者が三名、薫を守るように周りを取り囲む。
「自慢の新型羅刹も、これだけになっちゃった。 ……けどこれだけでも、後ろの役立たずを始末するには充分すぎるとは思わない?」
「はン、足取りがあやしいような連中に、私が易々抜かれるとでも?」
馬鹿にしなさんなと
はせせら笑うが、薫もまた黒い笑みを崩さなかった。
「たった3人だけれど彼等を甲州の時と同じだと思わないほうが良いよ。 あの時は、鳥羽伏見で補給するのを無視して強行軍で、大分弱ってたんだから。 今は甲州でたっぷり補給もしたし、極上の鬼の血を啜らせた後だからね」
それに、鬼としては弱い部類だけれど僕もいるんだよと薫は昏い笑みを深くした。
そうだ、彼がここにいるということは、甲州で自分や永倉たちを逃がすために足留め役となった彼は?
薫の言葉に冷たい汗が背中に流れるのを感じ、
は刀の柄を握る手に思わず力を込めた。
「不知火は……」
「あっははは、飛び道具なら有利だと思って、油断してたほうが悪いのさ! うん、一太刀ざっくり斬り付けて、そのまま新型羅刹の群れの中に突き落としてやったよ!」
「――!」
そうだ、あの時永倉たちと結構な数を片付けたが、薫の命令で動きを止めただけの者たちがいたはず。
不知火の銃は、威力はあるが接近戦や組み付きに持ち込まれた場合、不利になってしまう。
「惚れた女の前だからって無理に格好つけるからそうなるのさ。 あの時の不知火の顔、
さんにも見せてやりたかったなあ!」
「……っ!」
面白くて仕方がないという風に声を高める薫に、感情を顔に出さなかった
が嫌悪に眉をしかめた。
行け、人間の戦はお前たちの手で片付けろと、余裕を浮かべていた不知火の声が、まだ耳に残っている。
「……ほんと、惚れた女のために生きたまま羅刹の餌食なんて……報われない奴」
が何ごとか叫んで刀を抜き放とうとした背後で、鋭い殺気が膨れ上がった。
首筋に研ぎたての刃を押し当てられたかのようなそれに、
は一瞬息をつまらせ、逆にそれで正気を取り戻した。
「何してるのさ、らしくもない。 安い挑発に乗らないの」
「沖田さん……」
「君はこれから、僕が任せたものを守っていかなきゃならないんだよ? こんな三下と雑魚なんて、ちゃっちゃっと片付けてくれなきゃ困るよ」
常と変わらない、沖田のひょうひょうとした声が薫の言動で揺らされていた
の精神を落ち着けてくれた。
ひとつ深呼吸をし、鯉口をゆるめるに止めていた刀をスラリと抜き放つ。
月光に照らされた刃が濡れたように光るのを眺め、沖田は満足げな笑みを零した。
だが、薫も負けてはいない。
の背後にいる沖田を見やり、けだるげな口調で、
「そういえば、もうひとり馬鹿がいたね……変若水、使わないの?」
「……」
無言のままの沖田に、薫は自分を守る位置で立つ羅刹の肩にポンと手をやり、
「変若水を飲めば、その体だって戦える力を取り戻せるんだよ。 畳の上では死ねないにせよ、この戦の行く末くらいはその目で見られるくらいは生きていけるんじゃない? なのに使わないってことは、『気付いている』って事かな?」
「……チッ」
余計な事を、と言わんばかりに沖田は顔を歪めたが、薫の所まで踏み込んで斬り付けて黙らせる力がない。
確かに変若水は持っている。
それを飲めば、一時的とはいえ病を退け、戦う力を取り戻せる事だって分かっている。
鳥羽伏見の戦で腹に銃弾を受け、死に瀕した山崎はあえて変若水を飲み、羅刹となった。
自分はそれを早まった事、愚かなことだと評した、それだけの理由がある。
飲まない、のではなくて、『飲めない』のだ。
羅刹が血を求める時の、その理由ゆえに。
「千鶴ちゃんと同じ顔ってのがことさら腹たつよね。 ……
ちゃん、悪いんだけどそいつの口、黙らせてくれる?」
言われるまでもないとばかりに、
は床を蹴って庭に飛び出していた。
絶妙の重心移動からなる、伸びのある深雪独特の体裁きは飛天が舞うかのようで、久しぶりに見たなと沖田は少しだけ目を細める。
そのまま薫の前の羅刹に斬り付けるものの、羅刹は腕を翳して体を守り、急所を斬られるのを防いだ。
刃が骨にあたって軋む手ごたえがし、深雪は顔をしかめる。
普通の人間ならまずやらない防御だろうが、人外の再生能力を持つ羅刹たちはそんなことお構い無しだ。現に今斬り付けたばかりの傷も、ミチミチと異様な音をたててたちまち再生してゆく。
別の羅刹が斬り付けてくるのを、間合いをあけて余裕を持って躱し、深雪は薫の言う通り、彼等が補給を済ませて力を回復していることを知る。
山南が言っていた。
羅刹といえども食事をしなければ弱る。 基本的な力も再生能力も衰える。
食事というのは、人間の血であり、吸血衝動を薬でごまかすという行為は、すきっ腹に水を流し込んでいるだけなのだと。
一時的に餓えをごまかしても、結果的に焦躁は増し、身体が弱る分余計に吸血衝動も酷くなると。
人間も基礎体力がなければ怪我をしても回復が遅くなる。栄養補給をしなければ、弱った身体が元に戻りづらいののと一緒だと。
襲撃してきた羅刹たちは、甲州の時よりも、再生速度、刀を振る勢い、それらが明らかに強い。
永倉たちが居た時のように背を守りあいながら戦えない今、打ち合うのは得策ではない。
必ず力で押しきられるし、つばぜり合いに持ち込んだら足留めされているあいだに他から斬り付けられる。
躱し、くぐり抜け、急所を狙う。 半端な斬りつけかたでは足りないのなら、物理的に動けないようにするまでだ。
振り下ろされた刀を力を受け流しながら弾くと、かん高い音とともにまばゆい火花が散った。
光に怯むことなく、
は素早く刀を返し、羅刹の臑を狙う。
新政府軍の制式装備の弱点は、機動力重視で銃を扱うための装備のため、対接近戦用の装甲がほとんどないことだ。
斬り合いにおいて、敵にもっとも近付くゆえに守らなければならない手甲部分、刃が流れて傷を受けやすい臑の部分に、何の防御もない。
は刃筋を定め、短い気合いとともに手の内をギュッと引き締め、刃を振り下ろした。
固いものを断ち切る手ごたえの後に、水を含んだ柔らかいものをするりと斬る手ごたえが返り、一閃は羅刹の膝から下を綺麗に両断していた。
絶叫して体を崩す羅刹が地面に不様に転がった所で、すかさず切り落としたほうの足を蹴り飛ばして離れた所におく。
まさか切り落としたものまでくっつきはしないだろうし、歩行可能な状況に再生できるにしても時間がかかるはず。
足がなければ動けまい。
その読みは当たりで、切り落とした傷口の胴体側は、肉を増やして再生しようとしているが、形をうまく繋げられないでいるし、立ち上がろうにも片足では移動もままならない。
「(さすが、
ちゃん)」
沖田は、布団の上で膝立ちになったまま、内心笑みを零していた。
新選組幹部が一目おいた、
の修羅場での判断力は健在だ。
寸毫の間の遅れが死を招く修羅場で、とっさの判断から有利な状況を作る……こればかりは習うことの出来ない天性のもの。京にいたころはこれに何度も舌を巻かされたものだ。
羅刹一体を無力化し、
は切っ先を構えなおした。
「
さん、もしかして知らないの? それとも知らされていない? 俺は分かったけどなあ、そいつが変若水を使わない理由が」
「……?」
「その顔、やっぱり新選組も
の奴も教えていないんだね。 まったく、怖い連中だよ!」
「言いたい事はそれだけ?」
は、羅刹を斬り捨てた位置からふわりと飛んで廊下の段差の上に戻り、突きの構えを取る。
決して沖田の場所までは通さない決意の防御の姿勢だ。
「まあ聞いてよ。 羅刹にとっての血ってね、人間の食事のようなものなんだ。 美味しいも不味いもちゃんとわかるし、新鮮なほうが良い所まで一緒なんだよ」
「
ちゃん……」
「黙ってなよ沖田。 いい機会だから
さんにも知っておいてもらえば? いずれ、自分も羅刹になる可能性もあるんだしさ」
「
ちゃん!」
それ以上、喋らせないでという意味の沖田の叫びを受けて、
は防御から攻撃に転じた。
薫めがけて、一足飛びで間合いを詰めようと床を蹴る。
薫は動かない、当然の事であるかのように間に羅刹が割り込み、突き出された
の刃を弾く。
羅刹の肩ごしに、薫は
を見つめ、
「羅刹が一番求め、美味しいって思う血ってね、その羅刹が一番大事に想ってる人の血なんだってさ! ……お前、彼女を押さえておいて」
薫の言ったことが本当だと信じられず、一瞬動きを止めてしまったそのスキに、つばぜり合いになっていた羅刹が
の身体を弾き飛ばし、地面に転がった所を上から押さえ込む。
「噛み付いちゃだめだよ。 お前は、あの男を押さえて」
「沖田さん、逃げて!!」
の叫びとほぼ同時に、室内に上がり込んできた羅刹に沖田は抜き打ちで斬り付けた。
低い姿勢からの足狙い、
がしたように足を落してしまえば動けなくなる、動けなくなった所で心臓をひと突きにすれば自分でも倒せる。
そう思った、だが。
刃は、羅刹の足の骨に食い込み、止まった。
鞘走りの力を借りても腕の力の衰えは予想以上だったようで、刃筋をきちんと立て、斬り付ける瞬間手の内を締めたはずなのに両断できない。
中途半端な傷では羅刹は止められない。
刀を蹴られ、沖田は羅刹の力で布団に縫い付けられる格好で押さえ込まれてしまった。
屈辱的な扱いに顔を歪めるが、呼吸を荒げるだけでも胸が痛み、喉が鳴る。
この状態でもまだ喀血しないでいられるのが不思議なほど、沖田の肺はその機能を失いつつあった。
薫は余裕の足取りで部屋に上がり込むと、障子の前の廊下の上から、地面に押さえ込まれた
を睥睨した。
ことさらゆっくりとした動作で薫が懐から取り出したものに、
は息を飲んだ。
硝子の小瓶の中に入った、毒々しく揺らめく赤い液体。
変若水。
薫はそれを
によく見えるように一度揺らして見せたあと、背を向けた。
「あなたが僕と来ないなら、沖田にこれを飲ませるよ。 ふふ、どうなるか楽しみだよね、最初は平気でも、そのうち血を求めて発狂した時に」
薫は、一歩、また一歩と沖田に近付く。
明らかに
が耐えられなくなり、自分から行くと言うのを誘っていた。
「こいつは、誰の血を求める事になるんだろうね? 近藤? 土方? それとも」
「止めて! わかった、わかったから……」
行く、と言いかけたその言葉の端に、沖田の渾身の叫びが重なった。
「安い挑発に乗るなって言ったでしょ!! ……まったく、ちょっとは考えなよ」
「……」
「羅刹にする? はは、僕が羅刹になったらこんな雑魚、すぐに片付けられるだろうし……あんたも逃がさないで済むね。 そのあと、自分で自分の始末をつければいい」
ここまでの茶番を押し付けてくれたんだから、タダで帰しはしないよと、沖田は薫を睨み付けた。
「そうだよ、僕が今まで変若水を飲まなかったのは、薬があってもいずれ大好きな人たちの喉元に食いついちゃう事になるから。 そうなる前に、自分で切腹なり心臓ひと突きなりしちゃえばいいんだけれど、羅刹って死ににくいし、第一、あの人たち……僕が殺してくれって言っても、絶対に言う事聞いてくれないどころか、食いたければ喰えって言いかねない人たちばかりでしょ?」
ああ、そういう事か……と、
は納得するとともに、沖田が病と変若水で、あえて病で死ぬ事を選んだ理由を察した。
沖田が自らより大切と言い切り、何よりも第一に考える人は、近藤だ。
近藤の人の良さ、強さ、優しさ、それゆえの苦悩の深さは新選組に居た年月の間に
も良く見てきた。
沖田が近藤の役に立ちたい一心で変若水を飲む事になれば、彼は大切な弟分が自分のせいで羅刹という人にあらざる身になり、血に飢える狂気を抱えてしまったことを酷く気に病む。
そして、万一沖田が血に狂い、自分に襲いかかったとしても。
近藤は、沖田を殺せない。
殺せないまま、どうなるか。
それを一番良く知っていたのは、沖田自身。
羅刹が血に狂った時に、大事な人の血ほど美味と感じ、求めてしまうことになるとしても、近藤が取るだろう行動が分かってしまったから。
それゆえに沖田は、変若水が飲めなかった。
逆に近藤が、狂った沖田を斬り捨ててくれるような人であれば、沖田も安心して変若水を飲んだのだろう。
病に犯され、いずれ皆より早く死ぬにしても、僅かなりとも『剣』として近藤の役に立てる時間が得られるのなら。
喜んで人外の化け物となったに違い無い。
何てことだ、と思ってももう遅い。 どちらが現実になったとしても悲惨に過ぎる。
真実なのだとしたら、羅刹とは何と救いのない存在なのだろう。
自分を押さえ付ける羅刹の顔を見て、
の表情が泣きそうに歪んだ。
敵に情けをかけるなど柄ではないが、この羅刹にも、狂うほどに血を啜りたくなる相手がいるのかもしれないと思うと、あの赤い液体の罪深さが今さらのように心に押し寄せてくる。
一方、薫は開き直った沖田の態度が気に食わなかったようで、くるりと手の中で変若水の瓶を回した。
「さあ、飲ませるなら飲ませればいいよ。
ちゃんなら、辛いだろうけれど真実を知ったなら、僕が自害しそこねてもきちんと止めを刺してくれるから。 それくらいには、あの子の事信用してるからね」
「やーめた。 受け入れてる奴に飲ませたって、面白くないもん。 新選組の連中や、千鶴や
や、
さんを苦しめはできるだろうけれど……確かに、あんたを羅刹にしたらちょっと危ないよね」
沖田のすぐ側まで迫っていた薫は、変若水を手の中でもう一回転させると、悪戯を思い付いた顔でちらりと後ろを振返り、
「あっちを取り返しのつかない身体にしちゃったほうが、もっと面白い事になるよね」
「!!」
沖田の顔が驚愕と恐怖に引き攣る。
させるものか、と何とかして身体の上の羅刹をどけようとするが、山にのしかかられているようにびくともしない。
「ふぅん……
さんにご執心だなんて知らなかったな。
さんから京に居た頃に聞いた話じゃ、いちいち斬るとか殺すとか笑顔で言うから馴染めないって事だったのに」
「だまれ……!!」
「うん、やっぱりそのほうが面白そうだ! 千鶴や
も、
さんが羅刹になったらどんな顔するだろうね、今から想像するだけで胸が踊るよ!」
あははは、と哄笑しながら薫は部屋の外へ出た。
ストン、と庭に降りて
の側へ立つ。
「もう連れて行く気はなくなったけれど、話は聞こえていたよね?」
口あけさせて、と薫が羅刹に命じると、顎を砕きかねない力で捕まれ、
は呻いた。
今まで斬り捨て乗り越えてきた敵や、志なかばに倒れた仲間の、この国を人の手で良くしたいという想いにかけて、誰がそう簡単に羅刹になるものかと、
は必死に口を開けまいと抵抗する。
「このやろぉおおおおお!!」
僅かに唇が開いたその時、怒声とともに鋼の一閃が走り、身体の上の羅刹が半ば胴体を両断される形になりながら吹き飛んだ。
薫も
も、何が起こったのかと一瞬目を見開いた。
「何と不様な。 らしくありませんね」
次いで上から降ってきた辛らつな言葉と、それに反するように倒れた身体を引き起こした腕が、素早く後ろに庇ってくれた。
「平助くん、山南さん……!」
「私たちだけではありませんよ。 ああ藤堂君、加減はしてくださいよ、彼は良い情報源になりそうです」
修羅場にあってものんびりとした山南の声に、明らかに苛立った藤堂の声が答える。
「悪ぃ山南さん。 そりゃ無理だわ」
吹き飛ばした羅刹の心臓をひと突きにして止めをさし、薫との間合いをジリジリとつめる藤堂の身体から剣気がゆらりと立ち上り、同時に髪が冷たい白銀色に変化する。
藤堂の背を眺めながら、仕方のない子だと言いたげに山南は微苦笑を漏らしていた。
沖田の部屋からも悲鳴が上がり、背中側から心臓に苦無を深々と突き立てられた羅刹が廊下まで吹き飛ばされてきた。
羅刹を追うように、黒装束に身を包んだ山崎がゆっくりと姿を現す。彼の髪もまた、白銀色になっていた。
「山崎君、沖田君は?」
「大分悪い様子です」
山崎の答えに、山南は一つ頷くと、
「この鬼と、平五郎さんたちへの説明はこちらに任せて、先に松本先生を呼びに行って下さい」
「承知しました」
短く答え、山崎は室内側に姿を消した。
「さて……沖田君や五条君の様子も普通ではないようですし、手短に終わらせましょうか」
「く……」
形勢逆転。
身を守る羅刹を失い、山南と藤堂に挟まれる形になった薫は、先程までとはうってかわった表情で顔を歪めた。