羅刹女 ---34---
「頑張れ、もう少しで宿場だ! あと一里行けば熱い酒と風呂にありつけるぞ!!」
風の音に負けないよう、永倉が腹に力を入れて張り上げる声が響く。
それでようやく、後続の兵士たちは萎えそうになる気力を奮い起こして進む事ができた。
頑張れ、頑張れと声を張り上げる永倉は、数百人の軍勢の殿をつとめている原田と旧新選組の数人が来た所で、ようやく列に戻り行軍を再開した。
早朝に降り始めた雪は、たちまち激しさを増して降り積もり、甲州街道の難所のひとつ、小仏峠にかかる頃には峠の風に煽られて斜に吹き付ける激しさとなった。
この季節の天候の安定を信じて江戸を出てきた面々は、防寒対策などほとんどない。
道を白く被い尽した雪に足を取られ、蓑さえないまま吹き付ける風に体温を奪われ、敵と戦う前に寒さに倒れそうになる。
実際、こんなはずではなかったと、寄せ集めの兵隊の中から次々に脱走者が出ていたが、それを止めている余裕はない。
「よっ。 馬鹿は少々無茶しても風邪ひかねえからいいねぇ」
「ぬかせ。 そっちこそ、その減らねぇ口がちったあ凍り付いてりゃよかったのによ」
原田のほうは流石にまだ気力体力ともに萎えていないらしく、足取りもしっかりしたものだ。
その横に並んで、永倉もようやくいつもの顔に戻ることが出来た。
この寒さに気力をごっそり奪われて、幽霊の行進のようになっている兵士たちを叱咤し、時には励まし背を叩き前へ進めるのはけっこう骨が折れるものだ。
「前のほうは大丈夫かねえ」
「
ちゃんが先駆けして、この先の与瀬宿で準備を進めてくれているはずだから、雪の中で野宿ってことにだけはならねえだろうよ」
その
は、この吹雪なら数人のほうがかえって身軽に動けると数人を率いただけで先行し、一向の宿割や食べ物の手配を済ませ、宿場の世話役に頼み込んで宿場や近隣から蓑や笠を用立ててもらえないかと駆け回っていた。
今あるものを出してくれるなら三倍の料金を払っても良い、明日早朝の出立までに急いで作ってくれるなら五倍出しても良いと思い切って頼み込み、とにかく数をそろえようとしていた。
やがて、凍り付く寸前の甲陽鎮撫隊が宿場に辿り着き、さらに諸事手配を済ませて新選組幹部が泊まる宿に入った時には、行軍したのと同じくらいにクタクタに疲れていた。
布団に入るというよりはほとんど倒れるようにして眠っていた
だったが、夜半すぎ、急に揺り起こされた。
何ごとだと、思わず抱いて寝ていた脇差しを抜き放ちかけたが、目の前にいたのが斎藤だったためにあわてて自分の手を押さえ、寝ぼけ眼を擦りながら欠伸をひとつした。
「何だってんいうんですか、もう……夜ばいなら他いって下さい、他」
宿場なんだから飯盛女郎くらいいるだろうと、また横になりかけたが斎藤に止められる。
「部屋に勝手に入ったのは詫びる。 だが緊急事態だ」
「え?」
「新政府軍が、すでに上諏訪まで進んでいるとの知らせが入った」
「!!?」
眠気など、一気に吹き飛んだ。
斎藤の話では、先程、甲州行きが決定した時に先行し、現地の様子を探らせていた新選組隊士・大石が駆け戻ってきたという。
この雪の中を休む間も寝る間も惜しんで急ぎ戻ってきた彼がもたらしたのは、その急ぎぶりの事だけはあるものだった。
上諏訪宿から甲府宿までは、わずか六宿。峠を越え、信濃と甲斐の国境さえ過ぎてしまえばあとは坂を転がるように進める。
方や甲陽鎮撫隊はまだ甲斐国にすら入っておらず、さらにこの先、甲州街道最大の難所、笹子峠が待ち受けている。
出立するというのなら、その難所で雪中行軍という、途方も無く苦しい道行きを強いられる事になる。
「……早すぎる! 軍の規模で言う所の足の遅さならあちらさんのほうが遅くなるはずなのに!」
「どうやらむこうは、甲陽鎮撫隊の情報を得てから急ぎに急いだようだ。 この戦、甲府城を先に押さえたほうが有利だからな。 下手をすると、距離を稼ぐために今夜出立だ。横になっていても大丈夫だろうが、服装だけは整えておいたほうがいい」
「わかりました」
先程まで寝ぼけていた
の顔が瞬時に引き締まる。
見れば斎藤も隙一つない身支度をすでに終えている様子で、近藤・土方の下知があればいつでも出陣できる。
が着替えている間に、斎藤は他の幹部たちの部屋へと赴き、急を告げてからもう一度
の部屋へと戻ってきた。
「局長と、副長は?」
「今、部屋で話し合いをしているはずだ」
「もめているの?」
「皆、昼間の寒さに体力を奪われ尽している。 たとえ数刻でも眠らなければこの先歩く事もできないが、今急がなければ戦わずして負けだ」
無理にでも出立するか、それとも体力の回復を待つか、判断の難しい所だ。
は閉めていた雨戸を開けて、外の様子を伺った。
雪はいまだ降りやまず、宿場全体が白い色に塗り込められ、空はどんよりと曇ったままだ。
は、暫く空を睨んでいたが、斎藤を振り返り、
「……頼んでおいた蓑と笠を集めてくる。数が追い付かないかもしれないが、『勝つ』ためなら、ここできっと無茶をする」
「わかった」
斎藤は短く応えて、自分も話し合いの続いている近藤の部屋へと向かった。
今、多少の無理をしてでも出立して甲府城に入ってしまうべきだと主張する土方に対し、一軍の責任者として、兵を疲弊させたまま行軍を強いるなど出来ない、せめて少しなりとも休ませてからでないとさらなる脱走や離反を招き、軍としての形を保てなくなると主張する近藤。
意見は対立していたが、指揮権は最終的に近藤にある。
結局、
の予想に反して出立は翌朝となり、行き交う人がいないために、深く足を取られる雪が降り積もった峠の道を進む事となった。
出立前、
はあることに気付く。
到底足りないと思っていた笠と蓑が、僅かな不足が出ただけで数が足りてしまったのだ。
「(脱落と、脱走……)」
寒さと極度の疲労にやられて体調を酷く崩したという理由で、与瀬宿に置いていかざるを得なかった者もいるが、それ以上に脱走が多い。
現状これなら、甲府城にたどりつくまでにはもっと減っていると予想がつく。
対する新政府軍は、少なく見積もっても洋式調練を積んだ兵隊が千人、そこに最新式の銃砲が加わる。
甲府城さえ先にとれれば、あそこには甲府勤番の持つ軍と合流でき、数的不利をそこそこ補え、『城』という容易に破れない盾を手にいれることができる。
そうなれば、新政府軍は遠く西国から行軍を続けてきているために兵士達の疲労や士気の低下、さらに内陸部では補給線が細いという弱点が浮き彫りになる。
先に城入りして、弾や食糧の補給線さえ断ってしまえばジリ貧に追い込める上、城を盾に釘付けにしている間に甲州街道から一気に援軍を呼び寄せて叩き潰す事も可能になる。
甲府城をどちらが取るかがこの戦の勝負所だ。
なのに、敵兵とあたる前に自然の気紛れに翻弄され、戦う前から壊滅しかねない状況に陥ろうとは、甲州行きを決めた時には誰も思わなかっただろう。
土方は再び少人数を先行させ、甲州の様子を偵察に行かせた。
峠を越え、甲斐国の中程まで進んでからは雪雲もこちらの土地ではさほど厚くなかったのか、勢いもなくなり寒さも和らぎ、足を取られる難も少なくなったが、代わりに待ち受けていたのは恐れていた知らせだった。
甲府城が敵の手に落ちた。
城の中にいた者たちは、新政府軍に恭順するべきと、徹底抗戦するべきという意見に別れていたが、新政府軍に銃砲を並べられ錦の御旗の威光を見せつけられて、恭順派が抗戦派を城から追放して城を明け渡してしまった。
抗戦派はなおもあきらめず、甲陽鎮撫隊と合流するべく街道を進んできているというが、これに対してもすでに追討軍が差し向けられているという。
伝令の知らせに、さすがの近藤も土方も青ざめたが、土方はすぐさま援軍を要請するために馬に飛び乗り、今来た街道をただひとり駆け戻って行った。
「江戸まで行って援軍を呼んでくる! それしか勝つ手はねえ、それまでどうか持ちこたえていてくれ!」
兵士たちがこれ以上脱走しないように、城は確かに取られはしたが、こちらも会津の援軍がすぐ後ろに来ているから踏み止まるべしと近藤自身が広めてしまった。
これに憤慨し、今すぐ撤退するべきだと主張したのが、永倉、原田だ。
近藤にしてみれば、幕府に身分と軍資金、さらに銃砲を与えられておきながら、期待に応えず、刀も交えないまま引き下がれるものかという気持ちがある。
かといって、負け確実の圧倒的な戦力差を前にして兵に死を命じて突っ込ませるのは、将のすることではない。
土方の呼んでくるだろう援軍さえ到着すれば勝てる。
そう断じ、何としても戦をすると言い切った近藤の態度に、永倉も原田もとうとう折れた。
腹は立てていたが、無理もないと思っている部分もあったから、引き下がったという方が正しい。
近藤は鳥羽伏見の戦を経験していない。
化け物のように射程の長い銃に、家や塀を簡単に吹っ飛ばす砲弾に狙われた事がないから、まだ戦は気合いでどうにかなると思っている。
確かに戦において、何としても勝ってやるという気合いは重要だ。
だが、その気合いすら粉々に吹き飛ばす最新式の火器の威力は、体験してみなければわからない。
永倉たちにも、土方が呼んでくる援軍がたどりついてくれれば、という期待がなかった訳でもない。
「ああ、話し合いはどうでした?」
前線で、柵を立てたり土を積んだり、大砲を据え付けたりと陣地の構築に急がしく働いていた
は、渋い顔をして戻って来た永倉たちにそう声をかけた。
「駄目だ。 何としても戦だって話にならねえ」
「現状、兵力差十倍か……さすがにキツいかもしれませんね」
単純に、銃砲なしの斬りあいならば10倍ごときで怯みはしない。
この会話は陣を作る兵士たちに聞こえないようにしているが、いくら隠しても戦力的不利は明白で、兵士たちの不安を掻き立ててしまう。
援軍到着まで、なるべく時間稼ぎはするということだったが、いずこの軍が街道を騒がせているのかと誰何してきた新政府軍の偵察部隊に、戦に浮き足立った兵士たちが、
「聞いておどろけ、あの新選組が加わっている」
と宣言してしまった事で、予想よりもかなり早く戦端が開かれてしまった。
たちまち激しい銃の撃ちあいとなり、甲陽鎮撫隊は布陣した場所の地形的有利すら新政府軍の圧倒的な火力にたちまち打ち崩され、戦闘開始から僅か一刻(2時間)、総崩れの態となり各々敗走するしかなくなった。
そこへさらに追い討ちがかかる。
「ば、化け物、化け物が出たぞ!!」
裏返った叫びが聞こえ、こうなったら一人でも多く味方を守り逃がそうと踏み止まっていた新選組幹部たちは、何ごとかと顔を見合せた。
逃げたはずの兵士が、恐怖に顔を歪めて道を転がるように駆け戻ってくる。
わざわざこちらに戻ってくるとは、鉄砲玉よりもその『化け物』とやらのほうが恐ろしいということだろうか。
「おいっ、この先で何があった!」
原田が道に倒れたその兵を助け起こして尋ねると、兵は恐怖に震え上がりながら、
「あ、あいつら斬っても撃っても死なねぇんだよ! しかも死体に取り付いて血を啜りやがる! た、沢山いて道を塞いでやがるんだ、逃げようったって逃げられやしねえよ!」
なにが甲州百万石だ、話が違う、違いすぎるじゃねえかと震えて頭を抱えてしまう兵に、原田は落ち着いた声で、
「足が動くんなら、森に入って山伝いに逃げろ。 いいな」
そう言ってから、兵の背中をポンと叩いてまっ先に彼の来た方へ駆けていった。
永倉、斎藤、島田、そして
。 それぞれに顔を見合せると、ひとつ頷いて原田の後を追い掛けて駆け出す。
さきほどの兵が言った『化け物』の正体に、嫌というほど心当たりがあったからだ。
すでに三方を新政府軍に囲まれ、唯一逃げられる背後の道を『化け物』に取られた。
どこかを切りくずさねば逃げられないが、鉄砲玉よりもまだ『化け物』のほうが対処方法を知っている分どうにかなる。
「……噂の新型羅刹か」
横でぽつりと呟いた斎藤に、
は頷く事で答えた。
まだ日は大分高い。
普通の羅刹は、こうも燦々と降り注ぐ陽の元では酷く衰弱してしまう。
衰弱した羅刹なら、烏合の衆でも有無を言わせず袋だたきにしてしまえば何とかなる、しかし陽の光さえ克服した羅刹相手ではどうにもなるまい。
永倉を先頭に現場まで駆け付けた新選組幹部たちは、目の前に広がる壮絶な光景に一瞬息を飲んだ。
百人ほどの人数が退路を塞ぐ形で広がっている。
格好こそ新政府軍の兵卒のものだが、数々の修羅場を潜りぬけてきた男達の足をも縫い付ける異様なまでの妖気が集団から立ち篭めていた。
夏の陽炎よりも強烈な目眩を誘い、冬の凍気よりも心胆を凍えさせるそれは、あきらかに人の発するものではなかった。
何より彼等の取っている行動が異常だった。
燦々と降り注ぐ陽の中、彼等の足下にいくつも転がるそれらは、かつて人であった肉の固まりだ。
そのどれもが原形を留めず、ずたずたにされた上、白い骨が露出している。
胸が悪くなるような光景だったが、それをさらに強くしているのが、兵卒たちの手や口元、衣服が血で濡れているということだ。
「
ちゃん、前に出るな! ちくしょう、こいつら新型羅刹ってやつか!」
やばい、と察した永倉が追い付いてきた
を背に庇う。
が、兵卒たちの奥で、
の名が出た事に反応した者がいた。
「五条様、そこにいらっしゃるのですか?」
「その声は」
永倉の腕に半分押さえられる形になりながらも、聞き覚えのあるその声に
は身を乗り出していた。
羅刹たちの壁をすり抜けるようにして、小柄な人影が前に出てきた。
まだ少年、すっきりとした洋装で纏めた装束に外套を羽織っている。
何で戦場にこんな子供が、と男たちは思ったが、彼の顔には見覚えがあった。
伏見奉行所以来、別れ別れになってしまった千鶴によく似ている。いや、似過ぎている。
千鶴によく似た少年は、にっこりと笑うと
に視線を向けて、
「お忘れになってしまいましたか? 薫でございますよ」
忘れるはずがない。
京で何度か会っているし、そもそもの発端は千鶴に似た女がいて倒幕派に組みしているらしいという噂からだ。
「忘れたなんて情のない事は言わないさ。 ……けれど、それが本来の姿ってわけかい」
「ああ……もう女言葉は使わなくてもいいよね。 あんたを騙すのはちょっと気がひけてたんだけれど、こちらも事情があったんだ、それは水に流してくれると嬉しいな」
「それについちゃ、こちらもこのナリなんだ。 言えた立場じゃないから気にするな」
の答えに、薫は少しだけ微笑んだ。
「……で? ただの顔見知りってよりは親密な様子だが、単に旧交をあたためるために出てきたわけではなさそうだな?」
警戒を解かないまま、原田もじりじりと歩をすすめて
を庇う位置に立つ。
「もちろんさ。 あんたたち新選組には、このままここで全滅してもらったほうがいいと思ってね」
「そいつらが、新型羅刹って訳かい。 なぁるほど、お天道様の下でもピンピンしてる羅刹ってのは俺たちからすると違和感あるねえ」
原田は構えた穂先きを用心深く下へと落とす。何かあれば一気に跳ね上げ、突き込めるように。
「そう言うなよ、これでも可愛い奴等なんだからさ。 ……もっとも、俺たちが手を下すまでもなく壊滅状態みたいだけれど?」
あからさまに馬鹿にした目で一同を見渡し、薫はせせら笑う。
永倉と原田に庇われた
の後ろでは、斎藤が静かに周囲に気を配り続けていた。
背後から迫ってくる前線後退の気配を察し、小声で前の三人に状況を告げる。
「このままでは挟み撃ちにされるぞ」
「近藤さんはまだ前線か? あの人も諦め悪いねぇ」
「だったら斎藤、お前、近藤さんを守って逃げろ。 ここは俺たちがどうにかしておくからよ」
挟み撃ちが迫ってきていても、少人数でなら脱出経路はいくらでもある。周囲の山は深く、道は険しい。集団で動くには難儀な土地であることを、ここまでの行軍で嫌というほど経験してきたばかりだ。
永倉と原田の言う通りにしたほうが良いと判断した斎藤は、きびすを返して戦場へと走っていった。
薫は意外そうにその背を見送る。
「ふぅん……いいの行かせちゃって? 万が一にも生き残れるかもしれない可能性をもっと低くしちゃったかもしれないよ?」
「はっ、新選組幹部様を甘くみるんじゃねぇやクソガキが。 こいよ、御自慢のオモチャが壊れても泣くんじゃねえぞ」
永倉は片手に刀を持ち、もう片手でちょいちょいと手招きの仕種をする。
圧倒的不利だと言うのにその表情はどこか楽しそうだ。
「
ちゃん、悪ぃがアテにするぜ。 ひとり頭、大体30強ってところか?」
「馬鹿野郎、ここは任せておけくらい言えねぇのか。 こういう時こそ男の見せ場ってもんだろうが」
「ふぅん……どうしてもやる気? 僕は別にいいんだけれど、手間取ってるうちに挟み撃ちになって鉄砲の餌食なんてことになったらつまらないよ?」
新型羅刹とやりあう気満々の永倉と原田に、薫はこういうのはどうかと提案を持ちかけた。
「
さんをこちらに引き渡してくれたら、退いてもいいよ。 無論、羅刹たちにも撤退中に手は出させない」
「今さら私に用事?」
「ああ、とっても重要な、ね……」
今、綱道さんが江戸にいて、ちょっと大きな仕事をしようとしているのだと薫は前置いて、その仕事を台無しにしようとしている奴がいると説明した。
「それが、あんたの弟。 五条拓人さ」
は、江戸を出る前に松本の所で会った弟の話を思いだす。
新型羅刹を使って江戸を火の海にするという計画。
新政府の政略的な意図もあるが、綱道や薫にしてみれば今まで自分たちを虐げてきた人間たちへの戦線布告ともいえるそれを止めてみせると言っていた。
どうやら大見得切っただけのことはあったようで、薫の話によると自分と綱道が新型羅刹を率いて江戸に入った時にはすでに、拓人側の根回しはすっかり終わっていて、江戸周辺の鬼族の協力は一切得られないどころか話も聞いてもらえず、人間の側から働きかけようにも拓人の意を受けた松本がこちらもほぼ根回しを終えていて手の出しようがなくなっていた。
仕方なく新政府の手を借りて江戸内の潜伏場所に入ってはいる。
こうまで敵対の意思を明らかにした拓人など、羅刹の研究者であり頭脳は利用価値があるとはいえ所詮は人間、殺してしまったほうが後々禍いにならないと薫としては思うのだが、同じ研究者として綱道は彼の存在にまだ価値を見い出しているのだという。
説得を重ね、再び協力できるようになれば自分たちの力はさらに磐石のものになるのだからという綱道の言い分を、薫としても一応は容れる事にした。
戦力的にも、将来的にも、自分たちには人材が足りない。
頭を必用としない兵士はいくらでも作れるとしても、理想を支えるだけの人材が不足しすぎていた。
ならば確実に五条拓人をこちらに取り込める材料として、彼の一番の泣きどころを押さえておけばより確実だろう。
「……わかった、私ひとりですむならこちらとしては安い取引きだ。 江戸に入るまで絶対に羅刹どもに手を出させるな」
薫の言い分は、弟の危機を招く事になるかもしれないが、ここで誘いに乗らなければ近藤と新選組を信じてここまで来た者たちにさらなる被害が出る。
原田も永倉も、強気な事を言ってはいるが無事にここを突破できるとは思えない。
自分ひとりの身柄で状況を打破できるなら悪くはない取引きだ。
が言うと、薫は鷹揚に頷いてみせた。
「約束は守るよ。 正直なところ、俺たち鬼は新政府にも幕府も一まとめに『人間』だしね、どうせ後で滅ぼすんだから。 さっきとは矛盾するけれど一時見のがしたくらいでどうこうなるもんじゃない」
ところが、その薫の言い分に笑いだしたのが新選組の男達だった。
永倉は、前に出ようとした
の頭を拳でゴチンと殴る。
「痛っ! 何するんですか!」
「ばーか、安い口車に乗せられてるんじゃねえよ。 あいつにとってお前さんが一番の泣きどころって所は認めるが、人質にとられたくらいで大人しく言いなりになるようなタマか、お前の弟はよ」
「新八の言う通りだぜ。 ああ見えて肚ぁ据わってるようだしな。 お前が新選組に愛想をつかしたってんなら話は別だが、そうじゃねえならここにいろ!」
突破するぞと叫び、永倉は新型羅刹の群れの中へと突っ込んだ。
原田もそれに続く。
だが、こんな状況なら、普段なら遅れを取ってたまるかと駆け出すはずの
の足は、地に縫い付けられたように動けなくなっていた。
「……私は、もう、足手纏いでしかないか」
不動堂村の屯所に移った頃のあたりから、自分の存在のせいで何かと新選組に迷惑をかけてきただけでも申しわけなく思っているのに、一人前の男として大業をなしとげようとする弟の足までも引っ張るようではもう身の置きどころなどない。
今も、自分さえいなければ薫が羅刹を率いてくるような事も避けられ、斎藤も原田も永倉もこんな無理な戦いなどせずに、人間どうしの戦争に終始できたはずなのに。
状況を不利にしながらも守られるような事は、それこそガラではない。
自分の存在が、すでに大事な人たちの重石にしかならないという事を理解した
の出した答えは簡潔だった。
「(……私のやるべきことは、終わった)」
七つの時に母が亡くなった時にそうすると決めた、守るという誓いも成し遂げられた。
思い残す事はない。
どこか安堵の心さえ持ちながら、
は脇差しに手をかけた。
鯉口を切り、すらりと抜き放って手の中でくるりと回転させて逆手に持ち替えて目の高さに掲げた時に、ハッと息を飲んだ。
これは自分の脇差しではない。
戦場に来る前に預かってきた、沖田のものだ。
振るう事はなくなってからも丁寧に手入れされ、刀身には一点の曇りすらない。
清冽な銀の輝きの中に、自分の顔が映りこんで、こちらを見ていた。
まるで深淵を覗き込んでしまったような、底なしに昏い自分の視線をまともに見てしまい、
は息を飲んだ。
これが自分の顔かと思うと同時に沖田の笑い声が聞こえてきたような気がした。
『まったく、どっちがガラじゃないのさ。 こんな所でウダウダ悩むなんて君らしくない』
日頃から殺すの殺さないだの物騒な事ばかり言っていた、態度にも出した沖田の憎たらしい声。
『少なくとも、これを僕に返しに来てくれるまでは死んだりしないでよね。 葬式の弔辞であることないこと吹聴されたいの?』
沖田なら本気でやるだろう。
それも聞くに耐えないような内容で、死人も思わず棺桶から起きあがって、その口を閉じろと掴みかかりたくなるようなものを。
『守られるのが当り前だとは思ってほしくないけれど、守られる事の何がいけないの?』
そういえば、京にいたころ言っていた。
自分にも姉がいると。
幼かった自分を、病弱だった母の代わりに守り育ててくれた姉。
その姉の背丈を追いこして、おぶってくれた時に随分大きいと思っていた肩幅も越えたからには、今度は自分が姉を守る番なのだと。
それが当り前じゃないかと笑っていた沖田、その彼の声を幻聴ではなくもう一度聞きたいと思った。
「ごめん」
呟いて、もう一度刃の輝きを見つめなおす。
自分の心は、どこまでもこの刃に沿うものだと気合いを入れ、昏くよどんだ気と表情を引き締める。
これを預けてくれた人に、刀とそれに託した想いを信じて旗を掲げた者たちに恥じない行いをすべき事こそ自分がすべきことだ。
薫の言葉に揺れている場合ではない、まずは沖田の託してくれた魂の一部を彼の元にきちんと連れ帰らねば。
悩み立ち止まるのは、もう少し後でも良いはずだ。
脇差しを鞘に納めると、大刀の鯉口を切り、勢い良く抜き放った。
「……参る!」
叫び、新型羅刹の群れの中へ飛び込む。
たちまち血煙が
の姿を霞ませ、それを見た薫は獰猛な笑みを浮かべて羅刹たちに言う。
「女は捕らえろ! 男どもはそいつの目の前で喰い殺してやれ!」
「はっ! それこそこいつらが大人しく喰われるタマか! 喰わせた所で腹を壊すのがオチだろうさ、羅刹用の腹の薬はあるのかい!?」
鉄の嵐さながらに激しく刃を振るいながらも、憎たらしい暴言を吐く
の様子に、ようやくいつもの調子が戻ってきやがったかと永倉も原田もこんな状況だというのに安堵の笑みを零していた。
「そういうことだ、喰えるもんなら喰ってみやがれ! 腹ぁ下すだけで済めばいいがな!」
原田が腰で支えた槍をぐるりと凪ぎ払うように振るって羅刹を弾き飛ばした所で、
と永倉が駆け寄り三人で背中をあわせてお互いを庇いあう体勢を取る。
何十という羅刹にじりじりと包囲の輪を縮められながらも、少しも絶望していない彼等の表情に、薫のほうが苛立っていた。
「……生かしたまま、腹を喰い破られてもそれが言えるか、楽しみだね」
やれ、と薫は抑揚のない声で羅刹に命じた。