◇◇◇◇◇
二月の末、江戸市中はいつ戦争になるかと緊迫した空気が漂っていた。
何でも、将軍の恭順をよしとしない幕府旧臣が江戸城に立てこもり、城を枕に討ち死にする覚悟で戦を起こすとまことしやかに噂が流れ、江戸の町は異様な気配に包まれていた。
そのせいで、郊外に脱出する者も出始め、逆に流入してくる兵士に物資を高く売り付けようとするにわか商人なども出てきている。
新選組にも、甲府城を押さえ甲州街道を守れという命令が下され、
はその準備のために江戸市中をあちこち歩いていた。
「おい、五条。 姉さんよ」
こっちこっち、と物陰から手招きされて、
は何気ない振りを装って手招きする者のいる路地へと入っていった。
そのまま路地を抜けてから、話し掛ける。
「不知火じゃない。 何だってこんな所をうろついているのよ」
「うろついてるたあご挨拶だな。 まあ、半時でいいからちょっと付き合え」
こちとら甲州行きが決まって忙しい、と断ろうとした
だったが、不知火はしつこく食い下がってきた。
行き先が松本医師のいる幕府医学所だというから、妙なまねはしてこないだろうという確信はあったが、鬼の不知火がどうして幕府方の典医になど用があるのか。
「おう、先生。 待たせちまって悪いな、どうにか捕まえられたぜ」
妙に親しんだ様子で医学所の奥、松本の部屋に入っていった不知火の後ろについて
も部屋に入ると、松本の他にそこにはもうひとりいた。
「
」
京で別れた、弟だった。
どうしてこんな所にいるのか、とありありと驚いた表情を浮かべる
に、松本は深い笑みを見せた。
「近藤君たちを送ってきた後、自分も随分な怪我してるのに一度も診せに来ない不届き者をひっ捕らえる用がひとつ」
「え」
そういや、忙しくて怪我にまで気が回らない日のほうが続いていたなと気付き、
は自分の片腕を押さえて表情を固くした。
西洋薬の消毒液とかいうものは、とびきり染みるので遠慮したいのだが。
ほれ野郎ども、一寸外に出てろという松本の命に従い、不知火と
は素直に席を外した。
襖を背にした隣室から、痛いだの染みるだのギャアギャアわめく声が聞こえて、男二人は思わず顔を見合せて吹き出してしまった。
「あっはははは……あれが鬼より恐い女の声かよ、似合わねえ!」
「姉ちゃんてば、意外すぎだよ!」
絶対やせがまんすると思ってたのにといつまでもケラケラ笑う弟の背を、治療の終わった
は襖を勢い良く開けるなり景気よく蹴り飛ばした。
「治りは早いほうだが無理しちゃいかんと言ってる側から何をしとるんだ」
「松本先生っ、腐った脳ミソと性格の悪さに効く治療とか薬はないんですか!」
「つける薬はないものの相談をされてもそれこそ困るわい」
諦めろ、と言われて
はがっくりと肩を落とした。
忙しいのを承知でここに連れて来たのは、傷の手当ての他に江戸入りしているだろう綱道と新型羅刹についての話があるからだと
は話を切り出した。
鳥羽伏見の戦が起こるのに先んじて江戸入りしていた
は、千姫配下の鬼たちの手を借りてまずは江戸周辺に身をひそめて暮す鬼たちを味方に付けた。
また新選組より少し早く江戸に戻ってきていた松本の元を訪ね、自分がどういった者であるかを名乗り、綱道の事についてや変若水についての事を話して、松本にも協力してもらうことになったのだという。
「松本先生は幕府でも御典医をつとめるほど位が高くて幕軍全体の軍医の責任者で、蘭方医学にも通じているっていうから、変若水の事を知らないはずはまずないと思って。 どのみち、幕府を通して最初の変若水が入ってきた以上、俺たちの手の届かない場所にもあれの情報はあるんだから、それを何とかして抹消してもらえないだろうかって先生にお願いしたんだ」
弟の説明に、なるほど、と
は頷いた。
新選組が変若水の人体実験を引き受けたのも、幕府の密命あってのことだ。
どういう経緯で変若水を取り寄せたかは知らないが、窓口が幕府である以上はそれに関わる研究者と、資料があちらにも残されているはず。
現時点で、変若水と羅刹の利用は失策であったと幕府も認めている。
放っておいても記録は闇から闇へ葬られるだろうが、万が一ということもある。
「それにさ、俺があっちで掴んできた情報なんだけれど……綱道さん、新型羅刹を使って江戸を火の海にするつもりらしいんだ」
まさか、と
は言おうとしたが、
の目は真剣だった。
今や官軍となった新政府軍が求めるのは、旧政権である徳川幕府の恭順などという生易しいものではない。
その政治基盤と財力を完膚なきまでに崩壊させ、二度と立ち上がれないくらいの打撃を与えて抹殺せねば気がすまない所まで来ているし、上層部の意見もそれに傾いている。
江戸は長きにおいて、幕府の繁栄の象徴であり経済・文化の中心であった場所だ。
ここを二度と利用できなくしてこそ意味があるというのが大方の意見だ。
「おかしいと思ったんだ。 血を与えないと維持できない新型羅刹軍が、絶好の補給地になった鳥羽伏見の戦場を素通りしてこっちへ向かってるって聞いたから。 多少強行軍をさせてでも江戸のほうが大きな戦になるって踏んだから、あえて素通りさせたんだと思う」
「江戸は戦場になるでしょうけれど、そこに羅刹を投入されたら目もあてられない事になりそうね」
江戸城には、将軍の恭順を引け腰と見て、徹底交戦を唱える幕府内でも戦意盛んな者たちがまだ居る。
新選組もまた、江戸での決戦に備えていたのだが、甲州街道からこちらへ向かってくる新政府軍を阻むべく甲府城行きが決まったばかりだ。
甲州街道と甲府城は、万が一江戸城が陥落した時に備えて用意されたものだ。
江戸城を陥とされても甲府城に逃げ、そこで挽回を計るための拠点としてその昔用意されてはいたものの、数百年以上その目的で使われる事はなく、今後もないだろうと思われていた場所だった。
旧幕府の主戦派は、江戸が陥落したときに備えて後詰めとなる甲府城を押さえておきたいと思っている。
新選組に甲府城の押さえが命じられたと聞いて、
は難しい顔をした。
そこをどちらが押さえるかで、また戦況が変わって来る。
仮に押さえたにしても東にやってくる新政府軍も甲府城を重要拠点として攻撃するだろうから、必ず激しい戦になるだろう。
そうなると、江戸の前にそちらに新型羅刹が投入される恐れもあった。
それらを踏まえ、
はもう一つの懸念を口にした。
「綱道さんは、多分新政府軍に肩入れしてる。 東の鬼の一族を復興させる意思はあるだろうけれど、今はまだ人間の権力と手を結んでおいたほうが得策だって思ったんじゃないかな」
新型羅刹といえども数が少ないままでは、人間の圧倒的な数と、近頃とみに強力になってきた銃砲の火力に押し切られる。
それなら、協力体勢を取りながら戦力増強を計るか、内部から相手を食いつくして気付いた時には主導権を奪ってしまうほうが時間はかかるが効果的だ。
甲府で大きな戦いになり、またそれが長引くなら、綱道は間違い無く戦場に新型羅刹を投入してくる。
「どちらの軍勢が甲府城を押さえるかで江戸の動きもまた変わるかなって思うんだけれど。 ……姉ちゃん、甲州に行くなら気をつけて」
「気をつけるも何も、行く先戦場よ。 危ないのは仕方が無いわ」
「そうじゃないんだ。 綱道さんは江戸のどこかにいる、けれど、南雲薫の動きがさっぱり掴めない。 綱道さんと別行動を取っている可能性がある」
彼も綱道に協力しているからには、新型羅刹を率いているだろうし、どこかで遭遇する可能性もあると
は忠告した。
が、なるべく気をつけることにすると言うと、
は深く頷いて、じっと姉の目を見つめた。
「甲州はどうなるかわからないけれど、新型羅刹は、一歩たりとも江戸からむこうへ行かせはしない。だから、後ろを心配せずに戦ってきて」
たとえ江戸が戦場になろうとも、人間同士の喧嘩でおさまるようにはしてみせる。
これだけは、自分の口で伝えておきたかったんだと。
強い意思の宿る瞳にひたと見つめられ、
もまた深く頷いた。
戦の支度で忙しい屯所に戻り、諸手配の事と
が齎した情報を伝えた
は、甲州出陣に際して、近藤たちの故郷・日野を通る事になるというので、是非沖田を帰郷させたいという近藤たっての願いにより、彼の療養先へ向かいそのための準備をした。
甲州行きの一宿目となる府中宿で新選組改め・甲陽鎮撫隊となった一行に合流した沖田と
だったが、沖田は次の日野宿に行くのに駕篭に乗って行く事を嫌がった。
労咳に犯された沖田の肺はすでに呼吸する機能を失いつつあり、到底長い歩行や激しい動きには耐えられないというのに、だ。
いつまでも子供のように駄々をこねる沖田に、日頃滅多に怒ったりしない
もとうとう眉を吊り上げた。
「この、見栄っ張り!」
「仕方ないじゃない、駕篭に乗ってるところなんか見られたら彦五郎さんにどんな顔させちゃうかわかったもんじゃないもん」
頑として嫌だと言い張る沖田に、
は早々に説得を諦めた。
自分が言っても無駄なら労力の無駄、効き目のある人を回したほうが早い。
なので、宿場についても机仕事をしていた土方を捕まえて引っ張ってきて、沖田の部屋へ放り込んでおいた。
「他の所なら我慢もするけど、日野でしょ。 彦五郎さんとおノブさんの所でしょ」
「俺の義兄と姉さんの所だから余計な見栄は必用ねえって言ってんだよ、聞き分けろ阿呆が!」
ついには土方が怒鳴り飛ばし、それでも聞かないものだから今度は近藤が出てきてとつとつと言い諭す羽目になった。
沖田の説得は近藤に任せ、ここ数日忙しくてゆっくりする暇もなかった
は、久しぶりに洋装を解いてゆったりとした着流しを羽織り、普段は飲まぬ酒を一合だけ飲む事にした。
身体は疲れているのだが、頭が妙にはっきりしているせいで床についても眠れそうにない。
酒の力を借りて寝てしまったほうが、明日の行軍にも影響が出ないだろう。
「ああ、疲れた……」
京に居た頃はめったに言わなかった一言が零れ落ちる。
戦の支度だけならこうも疲れないが、陣中で物珍しい目で見られるのには些か参る。
甲陽鎮撫隊は、かつて京にいたころの新選組とはまったく違う組織になっている。兵の練度の点で天と地の差があるばかりか、集まった人員の質も大きく違う。
はっきり言って統制が行き届いていない。
今までだったら募集して人を選ぶにも多少の時間をかけていたのだが、今回はとにかく急ぎだった。
出陣にあたり幕府側から、京以来の人数では少ないから募集をかけてもっと連れていけと命じられ、近郷に募集をかけたところ人だけはあつまった。
ところがこれが破落戸と対して変わらないような連中だったり、いかにも勝ち馬に乗るか混乱に乗じて儲けようというような連中も多く混じっていて、人事を司る土方の頭を大いに悩ませていた。
そんな中でも女指揮官というのは珍しい。洋装をしていることもあって余計にじろじろ見られてしまうので気疲れしてしまう。
不躾な連中だとは思いながらも、いちいち反応していては角が立つ事にもなりかねないので、気付かない振りを続けている。
いつぞやと同じように、女の指揮官の元でなど戦えるかと言う者も出たが、すでに来るもの拒まず去る者追わずにするしか人員を確保するすべがないために、いろいろ噂が立ったりしても言わせ放題にしておくしかない。
文句があるなら勝手に出ていけということだ。
それよりも困ったのは、女が指揮官としている事で、女でも入れると誤解をさせてしまったことだ。
募集に際して十人以上は女性の志願者が来た。
これには土方も面くらい、流石に手にあまるようなので
が説得に出たが、集まってきた女たちというのが破落戸の男連中よりもよほど腰も度胸も据わっている。
襷がけに長刀を抱え、是非幕府のために……と来られたのには困り、娘子(じょうし)軍を作る予定はないし、たしなみ程度の長刀では却って危ない。
女性たちは男以上に働いてみせるという気概があったため、その分説得も骨が折れた。
後方で兵站を任せるにしても、軍規も統率もしっかりしていない状況で、戦場に出る前・出た後の気の昂った野郎どもの中に下手におけるはずもない。
説得を重ねて帰ってもらったが、本当にしぶしぶといった感だった。
近藤たちの故郷、日野宿でも少し人を募集するとか言っていたから、そこでも同じ事が起きませんようにと祈るしかない。
祈りの間に、
は、窓の外に見える宿場の風景を何ともなしに眺め溜め息をつく。
二百人もの人間が分宿しているために、大変な賑わいだ。
しかも、府中からすぐ近くにある日野から近藤たちの噂を聞き付けた者たちが是非軍に加えてくれと押し掛けてきて、彼等を迎え入れてあちらこちらで酒宴騒ぎになっていた。
騒いでいるどころではない、少しでも行軍距離を稼ぎたいのにと土方は言っていたが、近藤は、寄せ集めの兵の心をまとめるためには、酒と飯と女はかかせないと言って聞かず、積極的に新募集で来た者たちに交わり共に過ごしている。
確かにそれらは有効だろうが、時と場合によるとよほど言いたかったに違いない土方は、無言の意思表示のように一人静かな宿を取っていた。
も大騒ぎする気にはなれなかったので、同じ宿に部屋を取らせてもらいこうして静かに夜を過ごしている。
脇息(きょうそく)に身体をもたせかけ、溜め息まじりに手酌でちびちびと酒を嘗めていると、廊下のほうに人の気配がした。
「……誰?」
「……っ? 五条君か……?」
低い声が聞こえたと思ったとたん、障子がガタンと鳴った。
桟を荒っぽく掴んだような音、それに声がやけに苦しげだ。
は酒杯をほうり出し、慌てて障子をあけた。
「山崎さん!」
「すまん、少し中でやすませ……」
片手で胸を押さえて桟に取りすがる山崎の様子がおかしい。顔をしかめ冷や汗さえ浮かべて苦痛に顔をゆがめる、その原因に思い至った
は山崎の身体を室内に引っ張り込むと、後ろ手に障子を閉めた。
廊下には誰もいなかった、見られていない。
部屋の中に入るなり畳の上に蹲り、先程まで
がよりかかっていた脇息に掴まる山崎。
その姿が、
の目の前でみるみる変化した。
髪が、冷たさを孕んだ白銀の色に、瞳がぎらつく血の赤に。
羅刹の、吸血発作。
人にあらざる身と化した羅刹が、己の血肉となる人の血に飢えて起こすそれを耐える事は、時に精神を狂気にまで追い込むほどの苦痛なのだと言っていた山南の言葉を思いだし、
は息を飲んだ。
この発作を沈静化させる薬もあるにはあるが、あくまで一時的にすぎない。
薬で発作を押さえる事は人が空腹を水で一時誤魔化すようなもの、食事をして養分が満たされない限り、発作はまた起こり餓えも強まる一方ということも知っている。
掻きむしらんばかりに着物の胸元を掴む手の固さ、食いしばる歯の間からどうしても漏れる苦悶の声。
が迷ったのは、呼吸三つの間だけだった。
刀掛けに置いていた脇差しを手に取ると、山崎に止める暇も与えぬまま刃先を左腕の内側に突き立てていた。
言い表わしようのない芳醇な香りが、堪え難い苦痛の中にあった山崎の鼻先を掠める。
そろりと視線を向ければ、緊迫した顔をした
が自らの腕を傷つけ、血を流しているではないか。
白い肌から溢れる血の何と美味そうな事か。
喉奥がごくりと鳴るのを止められず、それに気付いた山崎はハッと自分の喉元を押さえた。
今、自分は何を思ったのか、と。
そんな葛藤を知ってか知らずか、
は腕を差し出す。
「山崎さん、飲んで!」
「……」
できない、と言おうとした口は動かず、代わりに手が差し出されてた腕に伸びてしまう。
そろそろと支え、滴る滴に鼻先を近付ける頃には山崎は固く目を閉じていた。
も、山崎が自らの胸元を掻きむしらんばかりに力を込めていた手が、差し出した腕に決して傷つけまいとそっと添えられているだけなのが返って痛ましく、それ以上は何も言わずにじっと待っていた。
乱れた吐息が肌に触れるというのに、それでもためらいを見せる様を正視出来ず、
もまた目を閉じた。
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