羅刹女 ---29---


鬼。

  の遠い記憶の中にあるそれは物語の中の悪役で、女や赤子を攫って食らい、罪なき人から金銀財宝をまきあげては住処に溜め込み、弱者に暴虐の限りを尽すものの最後には心有る英雄の手によって討たれてしまう、そういった存在だった。
 姿も、気味の悪い赤や青の肌に全身毛むくじゃら、大口は耳まで避けてキバが生え、腰には虎の毛皮を巻いて体つきは筋骨隆々、力にまかせて重たい鉄の棍棒を軽々と振り回す、そういったものとしか思っていなかった。
 幼い記憶が強烈すぎたせいもあるだろうが、そのせいか、風間、天霧、不知火たちがどんなに自分の事を鬼といおうといまひとつ信じられなかった。

 だが。
 今目の前にある不知火の姿は、幼い日の記憶を吹き飛ばして余りある、強烈な印象を持っていた。

 不知火が全身から発する気は猛々しいがそれでいて周囲の自然に不思議と溶け込んでいる。
 姿は羅刹と似ているが、彼等の発する寒々しさ、狂気がない。
 それほど、不知火と羅刹が身にまとう気は、太陽と月程に違っていた。

 すらりと均整のとれた肢体は、話に聞く鬼の毛むくじゃらの筋肉達磨とは似ても似つかない。
 褐色の肌の上に滑り落ちる銀色の髪に宿る光はどこか柔らかく、反するように黄金色の瞳の輝きは射すくめるかのように強い。
 額にある角がなければ異人に見えない事もない。
 だが、明らかに『人』とは違う圧倒的な存在感が の目を釘付けにしていた。

 目の前にいるのは人以上の力を有した生き物。
 逃げるのが賢いのだろう、だが逃げれば後に禍根を残す。
  は一度深呼吸をすると、握りしめた大刀をゆっくりと引き抜き、慎重に正眼に構えた。






 ヒュ、と鋭い音を立てて風が鳴った。
 目にもとまらぬ速度で振るわれる白刃の切っ先を苦も無く躱し、不知火は脇差しを逆手に構えて顔の高さに掲げる。
 流れるような動きで打ち込まれた正面からの一撃を軽く受け止め、そのまま片手一本で の体ごと後ろに弾き飛ばした。
 真後ろには木があり、 は弾かれた勢いで背中を幹に打ち付け体勢を崩してしまう。
 背を強打した拍子に肺の中の空気を吐き出してしまい、咳き込みかけたが何とかふみとどまり一度大きく呼吸する。

「このっ……」

 厄介な野郎だ、と言うよりも早く不知火が突進してきて、脇差しを持っていない片手でぶん、と頭の位置を薙ぐ形で横振りの一撃を放ってきた。
  はとっさに横に飛んで難を逃れたが、一瞬遅れてメリっと異様な音がした。
 その正体は、僅かに尖った不知火の爪が木の幹を抉った音で、生木に深々と刻まれた爪跡を見たとき冗談ではなく寒気がした。
 図体のでかい熊がやるならまだ納得がいく。とはいえあんな一撃を食らったりしたら人間の肉などたちまちズタズタだ。

「あっ、やべっ! いまいち加減が慣れねえんだよなあ、刃物や素手。 お前が銃を使い物にならなくしてくれたからだぜ」

 しかもあれは親友からもらったちょっと大事なものだったんだぞと文句を言われても、戦場で敵の武器を使い物にならなくするのは当然の事だ。文句を言われても困る。

「お前は、つまんねえ怪我で、鉛玉の一発で、他愛もねえと思っていた病で簡単に死んじまう人間……そうだろ?」
「人間やめた覚えはないからね」
「ったく、妙なへらず口はあいつそっくりだよ。 似た面しやがってやりにくいったらねえ」

 不知火はガリガリと頭を掻いて、

「とは言え人間のフリのままじゃあ手こずるって言うんじゃな。 骨の一、二本折れても恨むんじゃねえぞ」

 負傷は承知、死さえ覚悟の戦場で何を今さらと思わせる不知火の言葉に は薄く苦笑した。
 この物言いだと、傷をつけはしても殺す気まではないようだ。
 しかも不知火は、弟の手助けをしているような事を言っていた。
 人を軽んじてきた鬼が手を貸すような何かを弟がしているのかと思うと、少し気になり は不知火に問いかけていた。

「……ひとつ聞いていい?」
「あ、何だ?」
は何をしようとしているの? 見た所、あなたたち鬼って藩や上への忠誠心や損得勘定で動いている風にも見えないし……逆を言うなら、あなたたちの力って藩にしてみれば利用できる間はどうしても手元に置いておきたい部類だと思うのよね」
「まあ、違いねえわな」
「今のあなたは、そんなものなしというか損得は考えずに動いている気がする。 藩や組織よりも、一人の男を優先して動くその理由を、聞いていいかしら?」

 妙にカンがいいところまで似てるのか、と不知火は穏やかな笑みを口元に浮かべ、構えた脇差しを下ろした。

「細々とした上の事情は話せねえが、俺が損得抜きで動いてるってのは間違ってねえよ。 むしろあいつのためでなきゃこんな面倒な暴れ馬馴らしに自分から出向いたりしねえぜ」

 暴れ馬呼ばわりされても、 は怒ったりしなかった。

「あいつは、ダチだ。 ダチが困ってたら手を貸すのは人間も鬼も一緒だろう?」
「それは、その通りね」
「あいつは、雪村綱道を止めようとしてる」
「え……!?」
「変若水に関わっている以上、これについちゃ、お前等も無関係じゃねえか。 詳しい事情は省かせてもらうが、西国で変若水の研究をしていた綱道は、新型の羅刹の開発に成功した」
「新型、ですって?」
「ああ。 妙に綱道をとめなきゃって突っ走るから、詳しい事情を聞き出してみりゃ事はすげえ厄介ときた」

 羅刹の弱点である陽の光を克服し、超人的な力をいつでも発揮できる兵士をつくり出す秘薬をとうとう完成させたと綱道は喜んでいたが、これを危険視して開発を中止させようとしたのがお前の弟だという不知火の説明に、 は驚き目を丸くした。

「あいつは、剣の腕は中の上だったが頭はすこぶる良いのはお前も知ってるだろ。 ひとつ不利を消したならそれに見合う副作用もまた出てなきゃおかしいって力説してたよ。 それは実際その通りだった」
「……」
「綱道が素直に開発中止すりゃあ話はこじれなかったんだけどな。 けれどあいつは羅刹の力に取り付かれちまった」

 人を使って動きを調べさせたら、藩からも鬼側からも変若水の研究開発の中止を命じられたあとも密かに新型の羅刹を増やし続けていた。
 それを裏から支援していたのが、土佐の鬼・南雲一族の南雲薫。

「薫さんて、もしかして」
「ああ。お前も面識があるあの薫だよ。 ついでに言うならありゃあ男で雪村千鶴の双児の兄貴だ」
「ええっ!!?」

 今が緊迫した戦いの最中だと言う事も忘れて素頓狂な声を上げてしまうほどの衝撃の事実だった。
 というか、見た目完全に女だった、自分の目は節穴もいいところじゃないかと何ともいえない複雑な顔をしている の様子に、どこかでこんな表情みたなと不知火は苦笑を深くしてしまった。

「東の鬼を束ねる雪村の家がゴタゴタに巻き込まれて滅んじまったってのは鬼の間じゃ有名な話でな。 綱道はもともと雪村本家を支える傍流の鬼だったんだよ。 ……家の復興を諦めきれない綱道と薫は手を組み、新型羅刹を自分たちの兵として人間に戦線布告しようとしてる」
「!!」
「……綱道にゃ、育ててきた娘に本当の故郷を取り戻してやりたいって気持があるのかもしれねえが、薫はおそらくそうじゃねえ。 鬼が数を減らし、表の世界から姿を消して隠れて暮さなければならなくなった先祖の恨みを今こそ晴らすべきだと主張して、人間と戦争おっぱじめる気満々だろうな」

 冗談ではない、と は口の中で低く呟いた。
 不知火も少しだけ目を伏せる。

「俺なんかも、ガキの頃に何で鬼がこういう暮らしをしているのかって里の爺さん婆さんたちから聞かされたもんだがよ。 人間の世界に出てきて逆に思ったぜ、もう爺さん、ひい祖父さんたちが懐かしむ神代の昔とは違うんだってな」

 お前たち人間が鬼の事を聞かされて育つように、俺たち鬼も人の事を聞かされて育ったんだよと言う不知火に、 も少しだけ表情を緩めた。

「その上で思うぜ、もう鬼は人間に関わるべきじゃねえってな。 ……そして鬼のまがいもの、羅刹はこの国にいていいもんじゃねえ。後の世の奴等に始末を押し付けるなんて論外だから、この時代に生きている自分たちがきちんと始末をつけるんだって は言ってたよ」
「……それって、つまり」
「そうだ。 お前の弟は、人の血を啜る事でしか命を保てない羅刹がいずれこの国を食いつぶす前に、あいつらの存在をこの世から消そうとしている。 それが、変若水の研究開発に関わった自分の責任であると言ってな」

 共に研究開発に関わった綱道を、後ろだてになってくれた西国を裏切り、表には決して出せない戦いに命を投じている。
 そのために、京の鬼を味方につけることさえした。

「本当の意味で羅刹を消すには、研究開発の資料を消すだけじゃ足りねえ。人の頭の中にある知識も消さなきゃな。 京の鬼、八瀬の長老どもは国中の鬼を羅刹の消滅に協力させる代わりに に命を断てとまでほざいたそうだ」
「な……」
「幸い、八瀬の姫さんが周囲を一喝して止めてくれたみてえだがな。 それでもあいつはもう表の世界にゃ出られねえ。いずれこの国に興る新政府に知識を利用されないように一生隠れて暮さなきゃならねえ。 それでも良い、未来の子供等や、大切な人が幸福に暮らせるための国を守れるなら構わないって言うんだ、そういう奴のためにせめて心配事の一つも片付けてやりたいって思うのがダチってもんだろ」

 そこまでの事をやろうとしているとは、正直思っていなかった。
 笑みの中にどこかせつなさを見せる不知火が、本心から言葉の通りに の事を思って動いているのもまた、疑いようがなかった。
 驚きを隠せないままの表情の に、不知火は言葉を続ける。

「鬼が人のために動くのは、いつの世も好いた惚れたよ。 今回みてえに先祖の恩を返すために義理で動くほうが例外なんだ」
「……詳しい事情は判らないけれど、つまり今まで藩に手を貸してきたのって、義理がらみ?」
「まあな。でもそれも、倒幕……大政奉還までだ。それで充分義理は果たしたってもんだろう。 そのかわり、鬼の面倒事は鬼が片付ける。この国の大地に羅刹をのさばらせる気も、鬼と人との全面戦争を起こさせる気もねえ。そのあと西の国の鬼は、またこの国の奥でひっそりと暮す生活に戻る」

 だが、その前に。
 不知火は下げていた腕を上げ、脇差しを構えなおした。

「あいつの一番の泣きどころである姉さんを危ねえ場所から引き離して、新選組の羅刹どもをブッ潰す。 それくらい働いてもバチはあたらねえ」
「……それを、させると思うの?」

 新選組の羅刹の話を出したとたん、 の剣先から凍えるような殺気が吹き出した。
 妖気にも似た陽炎が華奢な肩から立ち上る。気の弱い者ならこれだけで圧倒されてしまうだろう気魄を纏い、 は真直ぐに不知火を睨み付けた。

「羅刹、羅刹とひとくくりにしないでもらいましょうか。 彼等は体質が少しばかり変わっただけ、魂が人間である限りは普通の人と何も変わらないのよ」

  は、弟とは違う形で身近に羅刹を見てきた。
 変若水を口にする切っ掛けは様々だったとはいえ、彼等は血に狂わない限りは、昼夜逆転生活をするちょっと変わった人だったし、食事もすれば厠にだって行く、悩みもすれば笑いもする普通の人と何も変わらなかった。
 体質的に生き物の血を摂取しなければならないだけの、普通の生き物。
 それが、 の見た羅刹だった。
 けれど多くは、体質から来る血を摂取したいという欲求が引き起こす渇きと苦痛に魂を蝕まれて、正気が危うくなってしまう。
 そうならぬように山南が気を配ったり、鶏の血を試したり様々な努力をしてきたことを は知っているし、最近羅刹になった藤堂もまた自分の身体的・精神的変化に驚きつつも何とか羅刹の体質を飼いならそうと努力している。

 人の魂を失わない限り、彼等は人のままなのだと。
 血に狂い、飢えた化け物になりたくないと恐怖する心を持つ限り、彼等は仲間に他ならない。

「羅刹を増やす計画が失敗であったことなんて、関わった当人たちが一番よくわかってる。 彼等が自分自身をどうするかは、彼等がきめる事よ」

  が羅刹たちをこれ以上増やす事なく、この世から消そうとしているのは彼なりの義あっての事なのだろう。
 止める筋はない、だが。
 仲間を殺すと宣言されてはいそうですかと道を開け、ほいほい鞍替えするほど は物わかりがよくなかった。
 引く様子がないどころか、ここまで事情を話しても理解しない に、不知火は嫌悪を露にした表情を向けた。

「あいつはあれだけ頭がいいのに、姉さんのほうはてんで駄目だな。 しかも頑固ときた」
「わかっているじゃない。 頭であれに勝てた事はついぞないのよ」

 頭が良くて様々な事にまで考えが及ぶから、羅刹が増えた場合のこの先の様子まで、見えているんでしょうねと は低く呟く。

「……けれどね、理屈よりも先に私にだって譲れないものがあるのよ!」

 言葉が終わると同時に、 は大地を蹴り突進をかける。
 細かい目くらましは一切なし、大上段に振りかぶり敵の目前で地面を蹴って跳躍し、全体重を乗せて振り下ろす。
 脇差しを掲げて一撃を防いだ不知火は、その腕のひとふりで宙に浮いた格好の を再び跳ね飛ばす。
 今度は自分から間合いを詰めて、脇差しを無造作に一閃、斬り下げた。
  の肩から血飛沫が飛び、たちまち着物が赤く染まってゆく。

「(見えなかった)」

 弾き飛ばされた事には今さら驚かない。
 が、斬られる瞬間の動きがあまりの動きの速さに残像程度にしか目視できなかった。
 そこからの戦いは一方的で、 は何度か打刀で不知火の攻撃を防いだものの、たちまち十数ケ所を斬られてしまう。

「そら、よっと!」
「ぐっ……!」

 不馴れな刃物にも少しは慣れてきたとでも言うかのような不知火の不敵な笑みを、血まみれの体をどうにか立たせつつ睨みつける。
 あまりの速度に目視できないなら、攻撃してきたところを迎撃してやろうと思ったがそれもあまりの速度に振るう刀が追い付かない。
 血の滴る脇差し片手に、不知火は、

「そろそろ失血で動けなくなってるだろ? ま、あきらめな」
「寝言は寝てから……ほざけっ!!」

 この状況で気を使っているのか、顔にも太い血管のある血止め不可能な急所にも仕掛けてこない不知火の余裕に、心底腹がたって は霞む視界の中、暗がりにたなびく銀色の影めがけて斬り付ける。
 だがその切っ先も軽く躱され、逆に太ももをざくりと斬られてしまった。

「………!!」

 悲鳴と呻きこそこらえたが、とうとう膝をついて倒れた の直ぐ側に不知火はゆっくりと歩みよる。
 失血は止まらず、すでに体温も下がり視界も危ういはず。
 放っておけば死ぬ、だが手当てをすれば助かる。
 これだけやっておけば、しばらく暴れる事もできないだろう。
 すでに刀を握る手にも力は入っていないのか、不知火が足先で柄を蹴るとあっけないほどに刀は の手の中から離れて転がっていった。

 その時だ。
 不知火が腰に巻いた布の下から、ポロリと小さなものが落ちた。

「なっ!」

 不知火は思わず自分の腰の辺りを片手で探った。
 銃を挟むための革帯の下に巻いている布が、すっぱりと斬られている。 の刀が擦っていたらしい。
 布の下には小さな巾着をつけていた。そこには、捨てるに捨てられなかったあるものを入れていたのだが、それが落ちてしまった。
 落ちたものに目を奪われているのは、 も同じだった。
 凍えた地面の上に落ちたのは、中に毒々しい赤い液体をたたえた小さな硝子の小瓶。

 変若水だった。

  は、とっさにそれに手を伸ばし、拾い上げると一歩後ろに後ずさった。
 失血が多いのに無理な動きをしたものだから、ふらりと視界が歪む。

「馬鹿がっ、まさかそいつを飲む気か!」
「……」

  は無言だ。
 ただその目は爛々と輝き、据わりきった様子で不知火の姿を見つめている。
 小瓶を握りしめた拳が小さく震えているのは、どんな感情によってか……不知火は自分が取った愚かな行動が招いた結果に、舌打ちをせずにはいられなかった。

 あの変若水は、親友・高杉の危篤の報を受けて京を離れる時に、 が託してくれたものだ。
 高杉が延命を望んだなら、これを与えてくれと。
 変若水でならば、死病といえども症状を一時的に回復させ、押さえる事もできる。
 彼や周囲が望んでも得られなかった『時間』を、あと僅かなりとも伸ばす事が出来るはずだから、と。
 変若水に頼る事には、 自身も相当の葛藤があったに違い無い。これを託すと決めた時、酷く苦しげな表情をしていたのを覚えている。
 すでにその頃から、変若水や羅刹について疑問を持ち始めていたのだろう。

 不知火が、高杉の死の床に駆け付けたとき。
 別れた時よりもさらに骨と皮だけになり幽鬼さながらの様相となった親友の姿に、心臓が止まりそうになった。
 日頃羅刹を『紛い物』と嫌悪しているというのに、変若水を飲んでくれと高杉に縋らずにはいられなかった。
 生きてくれ、まだその手段が残されているのなら諦めないでくれ、居なくならないでくれ。
 指先までも肉の落ちた手を握りしめて懇願しても、高杉はそれを受け入れようとはしなかった。
 手の届く場所に命を長らえる手段がありながら、これで良いのだと微笑み、人の運命に殉じて死んでいった。

 不知火の手の中には、使われる事がなかった変若水が残った。
  に燃やしてきたと嘘をつき、不知火はそれを肌身離さず持ち歩いていた。
 否、手放す事ができなかった。
 毒々しい赤い液体に、それを拒んだ親友の意思が宿っているような気がして。
 助かる手段が目の前にありながら、延命よりも人の天命に殉じる事を選んだ高杉の一生は、ひとりの子供に魂の在り方を教え、最後に道を示して行った。
 その子供は男となり、自らの意思で未来のための戦いに身を投じている。
 不知火が変若水を に嘘をついてまで手放さなかったのは、高杉を失った痛みや寂しさを忘れないため、彼の生きざまを無駄にしないための自分なりの戒めだった。
 これまでも、 のいない所で小瓶を眺めては、物思いにふける事もあった。

 その、変若水が。
 今この状況で、大いなる何かが問いを投げかけるように、自分達の間に落ちるとは。
  の手の中に渡った変若水、いざとなったら手首ごと切り落としてでも止める、そう決意しながら不知火は の動きを鋭い目で睨みつつ、そいつをよこせと手を述べた。

「そいつを飲めば、俺をしのげるとでも思ってやがるのか……?」

 もっと気の聞いた言葉をかけるべきだろうに、そうして を思いとどまらせるべきだろうに、そんな陳腐な台詞しか出てこない。
  はグッときつく小瓶を握りしめると、腕を振りかぶり、思いきり地面に叩き付けた。

 パシ、と小さな音を立てて地面にぶつかりひび割れ小瓶を、 は躊躇いなく踵で踏みつぶす。
 小さな破壊音の後に、足元からじわりと毒々しい赤が広がった。

「なくても充分だ、鬼だか何様だか知らないが人間なめるな! このまま思い通りになると思ったら大間違いなんだよ!」
「……!!」
「こちとら敵も味方も……羅刹も人の皮被ったケダモンも、数えきれない連中の血を踏んでここまで来てんだ! その血を裏切るくらいなら下らない生き物とやらのまま討ち死にしたほうがマシなんだよ!」

  の啖呵は、冬の澄んだ空気に凛と響いた。

「……お前……」
「例え死んでも私の選択は、新選組の仲間に、羅刹たちに、弟に、受け継がれる。 五条 は、簡単に死んじまうような弱っちい人間として戦う事を選んだってね!」

 不知火は、夜だというのに眩しいものを見るように目を細めた。
 血まみれの体を引きずるような有様だというのに、冬の空気を震わす殺気は寒さよりも心地よく、闘志の揺らめきは夏の陽炎よりも濃い。
  は激しい怒りを隠そうともしない表情で、真直ぐに睨み付けてくる。

「ああ……こりゃ、俺の負けだ」

 ため息まじりに細く呟いたあと、不知火は目にも止まらぬ速さで動き、 の鳩尾に深々と拳を叩き込んでいた。




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