羅刹女 ---28---
は、世の中で一番アテにならないものは何かと問われたら『神頼み』と迷わず答える。
アテにならないものより、自分たちの信念と力で動乱の中で道を切り開いてきた新選組の側にいるようになって、余計にその思いを強くしていたくらいだ。
だが今日ばかりは神に祈りたくなった。
背後には黒々とした森の闇、その後ろには夜空を染めるほどの勢いの伏見の町の火事。
無気味な明るさに染まった夜空の裾が、森の黒さをより際立たせる。
禍々しい景色が、淀城に向かって敗走する自分たちに追い討ちをかけるように禍いを連れて来るような気がしてならず、いずれの神でも構わないから、どうか新選組の仲間たちをお守り下さい、そう唱えずにはいられなかった。
どういう訳か、この時
の祈りは聞き届けられたらしい。
闇の中を急ぎ足で進む新選組の羅刹隊に追撃はかからず、四日の夜明け前には鳥羽から桂川ぞいに南下した富の森で身を休める事ができた。ここにはまだ前線が移動してきていない。
日中動けない羅刹隊にとって陽の光をさけながら身をやすめることができる場所を得られた事は幸運で、山南の判断でこのまま交代で夕刻まで仮眠を取りながら戦況を見、急を要するようなら淀城へ向かおうという事になった。
「五条君、君も休息は必要なはずです。 直に日射しを浴びない木陰ならまだ我々も起きていられますから、少し仮眠を取りなさい」
そう山南に勧められたが、
はこの中で日中の行動に支障がないのは自分だけだからと渋った。
「大丈夫ですよ、多少夜更かしをするようなものですから。 交代する時間になったら起こしますし」
「わかりました」
は適当な樹の影に陣取ると、いつでも戦闘に対応できるように装束を緩めず、左手は刀の上にかけるような状態で座り込んだ。
とたん、ドッと昨夜からの疲れが襲い掛かってくる。
さすがに働き過ぎたようだと思いつつ、左右に視線を流せば、負傷者はすでにぐったりと地面に身を横たえていた。
死んでいるのか生きているのか、僅かに呼吸をしている動きがなければ判らないほどだ。
腰に結び付けてきていた兵糧の干し柿や干飯、塩昆布などを水筒の水で少しだけ腹に流し込んでから、
は眠りに落ちた。
羅刹隊が新選組本隊と合流できたのは、四日の正午過ぎ、鳥羽を抜けたあたりで薩長軍の追撃に追われる形でなおも敗走してきた土方たちが富の森に転がり込んできた時だった。
伏見から脱出してきた幕府軍と合流して、全体の数はそこそこ居る。
森の中に潜んでいた山南たちが近付いてきたのに気付いた土方が駆け寄ってきた。
「山南さん、平助! 五条も無事だったか」
「我々は大丈夫ですが、羅刹隊はほぼ壊滅です。 君に伝えなければいけないことがあるのです、あちら様はどうも羅刹の回復力を削ぐ手段をもっているようで」
「何だと?」
さすがに土方の顔色が変わった。
山南は手早く昨夜の戦闘の次第を話し、懐から銀の銃弾を取り出してみせた。
羅刹の強みは、驚異的な生命力と回復力、人並みはずれた力だ。 それを封じられては日中行動できないという短所ばかりが残ってしまい、新選組は鬼札を封じられた事になる。
「あちらでも独自に羅刹の研究を進めていたことは、綱道さんや拓人君の事でわかっていたことですが……こう致命的なものを掴んでいるとは、私の読みが不足していました」
「山南さんのせいだけじゃねえよ。 ちくしょうめ、新選組の羅刹はあちささんでもけっこう有名になっていたってことか。 それに対する手段をあらかじめ用意してくるたぁな」
山南からの報告が終わった所で、土方が現状の説明に入る。
その説明というのが、我が耳を疑うようなもので、山南も藤堂も
もとっさに声も出ず、説明の内容が頭に染みるのに時間を要したくらいだ。
土方もそれだけの衝撃を受ける事を予想していたのか、呆けるのは後にしてくれなどとはいわない。
さすがに山南のほうが立ち直りが早かった。
「錦の、御旗ですか……それが、薩長軍に与えられたと」
己に言い聞かせるように噛み締めて言うのは、まだ頭のどこかでそれを信じられないからだろう。
古来より、錦の御旗はこの国の主人である天皇の軍、すなわち『官軍』を象徴するものだ。
最後に朝廷を手にした者がこの国における戦の勝者だといみじくも言うように、今回も朝廷が薩長軍をもって『官軍』と定め、二百五十年に渡り日本を守護してきた徳川幕府軍を『賊』と定めたのだ。
官軍と賊軍の差は大きい。
官軍こそは、天皇の意思を背景にした絶対の正義であり、賊軍は問答無用で殲滅してよい絶対悪、子々孫々まで誹られてしかるべき堕ちた存在、それほどの差がある。
また『賊』となること、後世に汚名を残す事は多くの者にとって堪え難い苦痛であり、恐怖であり、恥辱である。
自分たちだけならまだ良い、子も、孫も、その先も……歴史が続く限り、この国に居場所がなくなる。
大袈裟なようだが錦旗はそれだけの影響力を持つものだ。
錦旗たなびくの報が出た時、徳川家への恩顧よりも賊となる恐怖に負け、立場を変えた藩が多数あった。
せめて日和見をしてくれていればいいものを、一つが寝返ると次々に寝返りが続くものだから、薩長軍の数は異様に膨れ上がり、幕府軍を圧倒していった。
大半が日和見の立場だった土佐も薩長側についた。
さらには徳川本家の兄弟ともいえる御三家までもが薩長軍に組みし、幕府軍不利の状況に拍車をかける。
賊の烙印を押された事で幕軍が戦意を甚だしく喪失する中、それでも会津・桑名藩、新選組は怯まなかった。
幕軍は四日はそのまま富の森に布陣し、一歩も退かぬ戦いぶりを見せる。
夜になり、両軍退く形でその日の戦闘は終了したが、幕府軍には多くの死傷者が出た。
幕府軍は一旦淀城下まで後退し、淀城に入城を求めたのだが、拒否された。
まさか本陣が裏切るとは誰も予想しなかっただけに衝撃は大きい。
会津・桑名藩との軍議を終えてきた土方は、新選組が借りている淀城下の町家に戻ってくると、難しい顔をして幹部たちが集まる奥の部屋へと入ってきた。
「源さん……は、もういねえんだったな」
郷里から一緒にやってきて、新選組結成当事から一緒に働いてきた幹部、井上源三郎の姿が一同の中にない。
もういない、と過去形で言うのも何だったが、下手に希望を持つよりは諦めがつくという、土方らしくない心情がこの時働いていた。
錦旗、諸藩の裏切り、淀の入城拒否、新選組を任された重圧、指揮官として強気に振る舞っていても、そういったものが土方の精神を削り取っている。
だが土方は、今だ衰えぬ闘志を瞳の奥にぎらつかせて、幹部一同を見渡し先程までの軍議の結果を幹部一同に伝えた。
「薩長軍を淀城に入れさせはしねえ。 俺たち新選組は明日、会津の白兵部隊と一緒に富の森の東、千両松に布陣することになった」
淡々と決定事項だけを伝え、明日にそなえろと解散を命じる。
千両松は堤防の上に松がずらりと植わっている他は一面の湿地帯という、攻めにくい事は攻めにくいが、守るほうも大変な地形だ。
この冬場に湿地の冷たい水の中を這いずり回る事になるのは必至だったが、ここが正念場には違い無い。
寒い思いをするのは敵さんも一緒だし、何よりこちらに有利な事がある。
大砲は地面がしっかりしていないと設置できない。湿地なんぞに無理に設置したらどういうことになるか、あちらもわかっているだろう。
どでかい鉄の玉が飛んでこないだけでも、白兵部隊としては有難いものだ。
その分、人間が持っていればいい小銃を大量に投入してくるだろうが、接近戦に弱いという弱点がある。
苦戦はするだろうが、一度接近できれば白兵戦において精強を極めた新選組と会津の猛者にかなうわけがない。
状況は出そろった、すべては明日の指揮官たちの采配如何だと、
は廊下を歩きながら考えていた。
翌、五日。
朝から始まった千両松での戦いは、予想通り熾烈を極めた。
幕府側は僅かな銃兵を展開しつつ敵を引きつけ、横合いから白兵部隊が薩長軍が充分に近付いてきた所で飛びかかる作戦に出た。
銃砲隊を主力とする薩長軍は沼地に足を取られて照準が定まらず、鉄砲玉の量こそ凄いが盲滅法の方向に飛んでゆく弾も多い。
普段伏せて銃を撃つ事に慣れている長州銃兵はこの湿地では得意の射撃姿勢を取る訳にもいかず、俄仕込みの立ち姿勢で照準をあわせることになったのだが、そこはうまく行くはずがない。
射程距離の長い銃での弾雨も威力半減となれば、接近して確実に当てるまでと近付けは、たちまち新選組や会津の白兵部隊の餌食となる。
何度かそんなやり取りを繰り返して、正午を回り、そこからさらに半刻(1時間)ほどたった頃、血相を変えた幕軍伝令が千両松にやってきた。
千両松から西に僅か半里(2キロメートル)の富の森の幕府軍はすでに壊滅、勢いづいた薩長軍がこちらに向かっているという。
それを聞いた土方は、さっと顔色を変えた。
「……早すぎる! 何があった!」
昨日自分たちがあそこで戦った時のように、木々や茂みを盾にすれば銃砲の威力もかなり殺せる。 得意の白兵戦に持ち込めば相当粘れるはずなのに、何故。
だが伝令が話す理由を聞いて土方のみならず、周囲も愕然とした。
富の森の薩長軍の前に錦旗が翻ったのだという。
錦地に輝かしく日月を縫い取った旗は天皇の威光そのもの。
これに刃を向けるもの、この国のどこにも居場所はなく味方はないと宣言されたようなものだ。
お前等は『賊』だ、そう言い渡されて踏みとどまれるほど剛毅な者は富の森にはいなかった。
恐ろしい勢いで士気を挫かれた幕府軍はたちまち崩れ、散り散りに逃げ出し、遂には踏み止まる者など誰ひとりいなくなってしまった。
この伝令が着くのも遅すぎた。
まずい状況だと判断した土方が新選組だけでもまとめて離脱準備をしようとした矢先、千両松の幕軍を完全に挟み撃ちにする位置から凄まじい鬨の声が上がった。
こうなってはもう、前方の敵のみをひきつけて斬る作戦は使えない。
富の森方面から押し寄せた薩長軍の軍前には錦の御旗が惨然と翻る。それが挟み撃ちにされた絶望的な状況に陥った幕軍の混乱をさらに悪いものとした。
有利な状況から一転し、頭もろくに上げられないほど弾丸を打ち込まれ、皆湿地の冷たい泥の中に伏せっきりで身を守るしかない。
恐怖に耐えかねて逃げ出そうと立ち上がれば、たちまちにして弾丸に打ち抜かれる。
そうして倒れた死体から流れた血が泥と混じりあい、叫喚地獄の様相を呈する戦場でも、土方は怯まずに隊士たちをまとめた。
混乱と叫喚の中から生き延びた千両松の兵、僅か半数。いっそ壊滅にならなかったのが不思議なくらいの状況だった。
新選組は一部の会津兵とともに退却する幕軍の殿を守り、何とか淀城下まで撤退した。
何とか淀城に開城してもらえるようにもう一度掛け合おうとするがすでに時遅く、一部の薩摩兵がすでに入城しており、歓迎の挨拶とばかりに鉄砲玉を打ち込まれてしまったほどだ。
幕府方は淀城下にある藩校の建物を本陣とし、兵は空家になった民家や商家に分宿していた。
新選組が居る商家に足音も荒くあらわれると、本陣での決定事項を淡々と告げた。
「橋本に行くぞ。 そこでもう一戦だ」
一室に集まって土方を待っていた幹部たちの中、永倉が悲鳴のような声を上げた。
「けが人たちはどうする気だ! 山崎はもう動かせねえぞ!!」
山崎は、退却の時に流れ弾に右脇腹を撃ち抜かれて重傷を負っていた。 応急手当てだけはして別室に寝かせてあるが、状況はよろしくない。
彼等だけではない、新選組にも、会津や桑名にも負傷者は多数出ている。
ここまで逃れてこれたのはまだマシなほうで、その多くはあの酷い戦場の泥の中に置き去りにせざるをえなかった。
連れて行っては行軍速度が落ちるし、このまま城下に置き去りにしては薩長軍に見つかり殺されてしまう。
「今夜のうちに大阪城に落とす。 幸い船は借りられそうだしな。 五条がついてりゃ大丈夫だろう」
大阪に行けば充分な薬もある、医者もいる。
あいつ、どこいったと土方が幹部の顔の中に
の姿を探すが、居ない。
けが人の手当てでもしにいってるか、それともけが人の中に入っちまったかと首を傾げる土方に、島田が遠慮がちに言い出す。
「五条君は、行方知れずです」
「何だとお……?」
あいつに限ってそんなことがあるかといいたげな土方に、島田は状況を説明する。
千両松で挟み撃ちにされて撤退する混乱の最中、島田の元に
がぐったりとした山崎を担いでやってきた。
泥に足を取られる状況の中で、男ひとり担いでやってきたのにも驚いたが、山崎の怪我の酷さにはそれ以上に驚いた。
山崎は
のすぐそばで流れ弾に当たったという。
自分じゃ担いで行くにも限界があるから頼む、連れて逃げてくれと島田の手に山崎を託し、
自身は殿戦のまっただ中へ戻っていった。
髪も着物も泥まみれ、怪我をした山崎を担いだせいで背中は彼の血でべったりと濡れるという凄まじい姿だった。
もう何人斬ったのか、油が巻いてきており異様なぎらつきを放つ刃をひっさげ、
「芋と団子の分際で調子に乗りやがって、どっちも焼いて食ってやる!」
と女の口らしからぬ悪態をついてノシノシ歩いていく背中を見たのが島田が彼女を目にした最後だという。
託された山崎の怪我が酷く、あとを追い掛ける訳にもいかずそのまま撤退したのだが、こちらに着いてみて
の姿を探しても、居ない。
「……彼女がこの混乱に乗じて逃げるとは自分には思えません。 逃げるならもっと早い段階で逃げていたっていいはずですから」
「俺だって、あいつがこの後に及んで逃げ出すなんざ思ってねえよ」
何だったか、鉄砲玉と隊規で切腹だったら鉄砲玉のほうがマシだなんぞと誰かに言っていたそうだからなと、土方は難しい顔をする。
「怖じ気付いたってんなら、すぐ横で倒れたっていう山崎は見殺しにしてるぜ。 あいつが此処に来れねえんなら、来れない状況になっちまったんだろうよ」
ここに運び込まれたけが人の中にもいないのならば、死んだか、それとも合流しそこねて先に大坂城を目指しているかもしれない。
あそこには新選組局長がいる。
千鶴もはぐれてしまっているようだが、彼女もまた生きているならそこを目指しているだろう確信が土方にはあった。
「居ねえもんを頭数に入れて話をしてもはじまらねえ。 小姓連中を看護につけて、けが人の中で比較的マシなやつを動かすしかねえ」
「では船を雇ってきましょう」
斎藤が立ち上がり、夜の城下町へと出ていった。
戦争にこそなったが、街には逃げるに逃げられない者、また金次第で輸送などを引き受けてくれる者などこの機に乗じるつもりの者も数多く残っている。
幸いすぐに船を雇う事ができ、新選組はひとあし先に負傷者を大坂城へ向かわせる事ができた。
その頃、新選組からはぐれた
はというと。
戦場から抜け出し、ひとり橋本宿に向かっていた。
橋本は三本の川が合流する河川交通の要所であり、北に京・伏見、南に大阪という大都市を持つ事から、古くから商業・物流の要所として栄えた宿場だ。
平時において物流の要所であれば、戦時中はなおのこと拠点として重要度が増す。
薩長軍に橋本宿を取られてしまえば、後は大坂まで遮るものはほとんどない。 土方や幕軍がまだやる気なら、確実にここに来る。
また大打撃を受けていて大坂まで落ちるにしても、ここを通らないはずがない。
そう読んで、
は歩を進めていた。
行軍ではない、ひとり身の軽さですでに淀城下にいる新選組本隊を追いこしてしまっているのだが、それを知る術は
にはない。
最悪でも大坂で合流できれば良い、そう考えていた。
途中、小川を見つけ泥まみれになった着物を洗い、固く絞って再び身にまとう。
冬空に濡れた着物を着るのは辛かったが、泥がついていたのでは返っていつまでも乾かず延々と体温を奪われる。
落ち延びて行く最中では火も使えず、食べ物も携行していた干飯が泥まみれになったのを小川の水で洗って食うというわびしい様だったが、あの戦場を生きて離れられただけでも儲けものと思えば、文句もいえない。
小川で着物を洗った時、背中にべったりとついた血の多さに青ざめた。
銃で撃たれた山崎の出血だろうが、彼は無事なのだろうかと思う。
島田なら彼一人くらいは抱えて連れていってくれるだろうが、酷く不安だった。
自身はというと、あの酷い戦場を這いずり回りながら、傷ひとつない。 我ながら恐ろしいまでの悪運の強さだと呆れながらも、道を急ぐ。
夜道をひたすら歩いていると、橋本宿の手前で小さな森に差しかかった。
ここなら薩長軍に見つからないように身をひそめて少し休憩が取れるなと、ほっと肩の力を抜き、森の中に浅く分け入ると木立の影に身をよせて半刻ほど休憩を取った。
休憩のあとも、森や草木に隠れながら進み、橋本宿の灯りが見える所までたどり着けた時には思わず胸をなで下ろしていた。
軍隊が入っているならもっと騒がしくなっているはずだから、先回りも成功したようだ。
なら普通に道を歩いて行っても大丈夫だろうと、隠れて進むのをやめて街道の横まで出てゆく。
そうして暫く歩いた頃、突然目の前の闇がゆらりと動いた。
「……?」
正確には道ぞいに立つ樹の影から誰かが出てきたのだが、
は警戒し足を止め、片手で刀の鯉口をゆるめて歩みを止める。
「よう、多分ここを通るんじゃねえかと思っていたが、正解だったみてえだな」
「その声……不知火!」
長州藩に組する鬼、不知火。
影が近付いてくると、星明かりでもその姿がはっきりと見えるようになる。
は反射的に刀を抜き、構えた。
「どうして、ここに」
「いやあ、お前が淀城下にいねえって聞いたからよ。 千両松ではぐれたなら、今から淀に向かうよりも先回りして合流を目指すか大坂まで行くんじゃねえかなって思ったわけだ」
確実に船を捕まえるならば、木津川ぞいの八幡よりも淀川入り口の橋本宿だろうからこっちの道を張り込んでいたわけだ、と不知火は肩をすくめた。
「……わざわざ何の用なのかしらね。 生憎、千鶴ちゃんの居場所ならこっちが聞きたいくらいよ?」
鬼たちは、千鶴の身柄を今でも狙っている。
戦争の混乱に乗じて奪いに来る事も警戒していたが、予想以上に状況が厳しくなった結果、新選組も千鶴の行方を見失ってしまっている。
「俺の用事はそっちじゃねえよ。 アンタのほうだ」
不知火は腰の皮帯にはさんでいた銃を引き抜き、銃口を
に向ける。
「大人しく俺と来るならよし。 じゃなきゃ、足に穴あけて動けなくしてから担いでいくぜ」
並の女が言われたら竦みあがるような物言いだったが、
は呆れた表情を不知火に向け、
「去年の夏と残暑はとりわけ厳しかったものねぇ、脳味噌腐って頭に何か涌いた?」
お気の毒様なこと、と嫌みを言う。
寝言は寝てから言えとばかりの冷ややかな視線を、不知火は面白そうに受け止める。
「そうじゃねえよ。 ……お前の弟。拓人がすげえ頑張ってるんでな。あいつの憂いを一つ無くしておいてやろうと……まあ、お節介ってやつだな」
「だったら引っ込んでいて頂戴。 あれが一人前の男だっていうなら、もう弟のやる事に口を出す気はないんだから」
「そうも、いかねえのさ」
新選組にとどまりつづけたら、必ず命を落とす。
千両松の戦を切り抜けられただけでも奇跡だというのに、このまま先の見えない戦に身を投じ続けたらどうなるか。
「拓人が守ると決めたこの国に、お前がいないなんてことになったら、あいつのやったことは意味を失っちまうんだよ。 ……そうはさせねえ」
「生憎と、私も新選組から逃げない、離れないって決めてるのよ。 彼等だって守るべきものを持ってるし、私にも譲れない一線はあるのよ」
「……そう言うと思ったぜ!!」
不知火の語尾に重なるように銃声が鳴り響く。
連発式の拳銃の弾丸を次々と放つ不知火の狙いから逃れるために、
は横に飛び草むらに転がり込むと、道の脇の木立を楯に取った。
木の幹を掠めて銃弾が行き過ぎる。
連発式といえども拳銃なら出来て数発、標準六発、十発よりは多くない。
新選組の砲術方たちがそう教えてくれたことがあったので、
は冷静に不知火の放った弾の数を数えていた。
不知火は今手にしている銃の他にもう一挺予備を持っている。あれにも弾丸が装填してあると思えば、一度に攻撃に使える弾は多くて二十発までの勘定になる。
は羽織を脱ぐと、足下に転がっていた小枝に襟をひっかけひょいと木立の影から覗かせた。
とたん、それめがけて銃弾が飛んで来る。
「(ばかめ)」
新選組の浅葱羽織の淡い色は、闇夜でも目立つ。 戦場ではこれが合印となって同士打ちをしなくてすむのだが、狙い撃たれる的にもなる。
羽織りだけ撃つとは、不知火の目も、星明かりしかない闇夜では人間と同じ程度の働きしかしないのがバレたようなものだ。
闇夜の鉄砲て狙いが甘くなっている。それならこちらにも勝ち目は充分にある。
は引っ込めた羽織を今度は勢いよく投げ、自分もほぼ同時に反対側から走り出た。
不知火の銃口がどちらを狙うべきか迷うその間に、驚異的な俊足で間合いを詰める。
不知火も、羽織が囮で肉迫する
が刀を振るってくるなら、自分の身を囮にして捕まえる気でいた。
銃口は向けたが威嚇だけ、もとよりその程度で止まる相手ではないことはわかっている。
またいつかのように、抜き打ちに斬り付けてくるなら傷がすぐに治る体を幸い、刀ごと捕まえる。
あの時は仲間がいて
も思いきった判断が出来ただろうが、今度はそれもできまい。
それは
も分かっているだろう、その分加減をすべて捨てて全力で来るはず。
さあこい、不知火は自らの肉に
の振るう刃が食い込むのを半ば待ち焦がれる想いで一撃を受け止めようとした。
ところが
は、一歩深く踏み込むなり間合いの短い脇差しを引き抜いた。
逆手に持ち、右腕の肘の回転だけを使って斬り付けてくる。
「うお!?」
切っ先が不知火の胸元を掠める。
あわてて身をのけぞらせて躱したが、返す刃と同時に足を踏まれ同時に切っ先で首を狙われる。
鬼でもさすがに首はまずい、これもぎりぎりで躱すとのけぞりと足踏みで不安定になっている体を体当たりで思いきり後ろへ押された。
不様に背中から地面にひっくり返った瞬間、衝撃で緩んだ手の中から銃を蹴り飛ばされ、次いで脇差しを腕に突き刺されてしまう。
刃が地面に食い込むほど思いきり、しかも腕の骨の隙間に上手く刃が入ってしまって無理矢理外せばとんでもないことになる。
片腕を地面に縫い付けられてしまった不知火は自由なもう片手で予備の拳銃を抜こうとしたがこれも果たせなかった。
ぴょんと軽く跳ねて腹の上を踏まれてしまい、はらわたがはみ出すかと思ったのもつかの間、腰の皮帯に挟んであった予備の銃を抜き取られてポイッと投げられてしまう。
ややあって、ボチャンと水音がした。
「てめえ、何てことしてくれやが……」
不知火の文句は最後まで出なかった。
地面に縫い付けられた手を庇いながら斜に起き上がろうとしたその拍子、顎を思いきり蹴られたからだ。
舌をかまなくてよかった、そう思いつつも再び不様に地面に沈む。
頭を強烈に揺すられたせいで、グラグラと視界まで回る。
その回る視界の中で、
が大刀を引き抜き逆手に構えるのが歪んで見えた。
「(やばい)」
はっきりしない思考の中で、不知火は久しく感じていなかった危機をどう切り抜けるか考えていた。
驚異的な傷の回復力を持つ鬼といえども、傷が開いたままならいつまでもそのままだし、腸を殴られればそれなりに痛いし場所によっては行動不能になる。
脳震盪を起こさせるような頭への打撃も有効だ。
急所を蹴り上げられでもしたら人間と同じく目もあてられないことになる。
のような戦い方はおよそ正式な剣術を習った者の戦い方ではない。ほとんど喧嘩のやり方だ。
作法の良い武士からは不調法者と罵られる事だろうが、正攻法にこだわり過ぎて結果負けて命を失うようでは刀を持つ者として本末転倒と
は日頃から思っている。
さらに女の身の様々な不利を補うために邪道と言われようとどうやって勝つかの思案を欠かさない。
自然、教わった剣術に加えて喧嘩殺法が増える。
正攻法ではまず勝てない相手、『鬼』相手に今後も戦わなければならないならどうしたらいいか。
にとって常に頭の痛い問題だった。
頭が痛い相手なりに、自分たち人間よりも遥かに上の生命力・耐久力を持つ鬼相手に刀での戦法が通じない事を認め、ならどうしたら勝てるか、少なくとも負けないかを何度も思案していた。
捨て身でも無理、力で押し切ろうとしても無理、かといって一撃必殺急所狙いも自分の身を盾にされたら封じられてしまう。
それでも、心臓をひと突きにしたり首を落とせば死ぬのだから、絶対勝てない、殺せない相手ではないはずだから、と。
怪我による衝撃や失血、感染症が原因で死ぬ事はまずなさそうだが、からだの仕組みが人間とほぼ同じなら同じ弱点があるはず。
思案の結果導きだされた推測はおおよそ間違っていなかった。
鬼といえども痛みは感じ、息ができなければ苦しいし、殴られれば衝撃だって受ける。
傷に異物が挟まれば回復しきれない、または異物を巻き込んでしまったまま傷だけが塞がる。
「(こうまで形振り構わねぇ上に手強いなんてな。 やるしかねえ)」
不知火がぐ、と体の芯に力を込めた瞬間、降り下ろした
の剣先が不知火の胸の上、僅か半寸でピタリと止まる。
自分の足下で途方もないものの気配がざわりと蠢き、夜の空気を揺らす。
ひゅ、と短い呼吸を一度したあと、
は全身に鳥肌をたてつつ数歩後ろへ飛び退った。
背が冷たい汗に濡れる。
自分が今、目にして感じたものは何かの幻ではないか、刀を持っていなくば目を擦っていただろう驚愕の表情のまま、
は地面に転がる何かを凝視していた。
「……まさかこの姿を見せる事になろうとは、な」
笑いと一抹のやるせなさを含んだ不知火の声。
それに応えるように、夜がざわめく。
星空が、木々が、乾いた冬の地面が、それらの間を吹き抜けてゆく冷たい風が、先程とはまるで違う何かを含んでいる。
それが目の前の地面に転がる何か、不知火の身から発せられる異様な気配である事はわかっているが、今までどんな者と向かい合った時もこんな感触は受けなかった。
蛇に睨まれたカエルさながらに身動き取れない
の前で、不知火は体を起き上がらせ、地面に縫い付けられた腕から脇差しの刃をゆっくりと引き抜く。
体から刃が抜けたとたん、人間なら生涯手に不自由が残るだろう傷がスルリと治癒してしまった。
自らの血に濡れた刃を持って、不知火は立ち上がる。
異形、そうとしか呼べない姿だった。
「…………」
「どうしたよ、言葉もでねえか。 でもまぁこれを見て遮二無二につっかかってこねえのは流石だよ」
一流ってのは、相対しただけで彼岸の実力差がわかっちまうもんなんだろう?
そう言って不知火は唇を薄く歪めた。
夜の湖水さながらの色をしていた髪が、磨いた銀の色になっている。
もともと好戦的な赤い目が、猛禽の獰猛さを備えた金色になっている。
何より、額から皮膚を押し退け一寸ほどの長さの角が二本、生えてきている。
「――鬼」
「そうさ。 これが、この国に古来から住まう鬼本来の姿ってやつだ。 ……お前らんところの、紛い物なんぞとは違う、な」
呟くような
の声に応えつつ、不知火は一歩足を踏み出した。
とたん、
の足が一歩下がる。
下がりはしたが、気押されかかっていても気丈に目の前の敵を睨む視線を外さない。
「やっぱり良いね、お前――さあ、来な」
この状況でも震え出さない度胸根性に内心で賞賛を送りつつも、不知火は目の前の獲物を逃がす気などない。
が、
もいかに相手の得体が知れずとも、新選組と千鶴の後の事を思えばここで自分の命惜しさに逃げ出す訳にもいかない。
奥歯を噛み締め、柄を握る手に力を入れる。
不知火が伸ばした手を拒み、
は再び白刃を閃かせた。