◇◇◇◇◇
世に言う天満屋事件、その少し前。
姉に愚弟呼ばわりされている弟のほうはどうしていたかというと。
不知火と一緒に南雲薫の仮宅へと一旦駆け戻り、万が一追撃があってはいけないとそこからまた分かれて長州藩邸に逃げ込んでいた。
ここまで来れば安心と来た所で、不知火から『ドジ踏みやがって!』とけっこう容赦ない拳骨を頂戴したが、タンコブを意に介する様子もなく、すぐに次の行動にうつった。
『八瀬の里』に連絡を取りたいから何とか取次いでくれないかと言われて不知火は面喰らった。
「おいおい、八瀬の里っていやあ……そこの里長の血統は鬼の中でも最古の部類だぞ。 分かりやすく言えば、人間にとって天皇と将軍をまとめたような立場だ。 そいつら以上の力で日本国中の鬼に命令を下す権限を持ってる」
そんな大逸れた所においそれと連絡とれるかよ、と不知火は呆れ調子で言い、人間の接触となりゃ話が何であれ拗れる可能性大だろうよと肩をすくめた。
「……相当の石頭ってことですか?」
「まぁ鬼の中でも保守的ではあるわな。 当代の八瀬の頭領……姫さんだっていうけれどこれが相当破天荒な性格で、ガッチガチに頭の固い周囲はそれで手を焼いてるそうだぜ」
姫さんだけでも手を焼いてる所に人間が厄介事なんか持ち込んでみろ、門前払いがオチだと不知火は手を振る。
そこを何とか! 羅刹を一通り消すためだからこの通り頼む! と拝まれてしまい、不知火は複雑な顔で
を見下ろした。
羅刹については自分も快くは思っていない。
綱道の元を離れて、いざと言う時に綱道の首ねっこを押えられるような手段を持たなければいけないと言う
にできる限りの協力はしてやりたかったが、正直八瀬の里に連絡を取るとなると気が進まない。
「八瀬のド石頭どもに頭下げるくらいなら、直接綱道をやっちまったほうが話が早くねぇか」
「そうはいかないからお願いしてるんですよ。 ……新選組にはまだ綱道さんの娘さんがいるんですから」
何だ風間の奴まだフられてんのかと不知火はさっきとは別の意味であきれ顔になる。
「あー、それなんですけどね。 万事控えめな人間女性の通念において、押しすぎなんですよあの態度。 完璧に怖がられてますしね」
「そうか、ガキの頃から人間として人間の中で育ってきたわけだしな」
「俺の姉が珍妙なる例外なだけで、アレと一緒にしちゃいけませんよ」
押してもだめなら引いてみろって名言、いつ言おうかと迷ってますよと
が言うと、不知火はとうとう腹を抱えて笑いだした。
「あっはっは……きっと彼女も大喜びだろうよ、いっそ九州の里まで引っ込んでくれってな」
「どこまで引っ込めと言われるかによって今後が占えそうですよねーー。 俺、里まで引っ込めに一両賭けてもいい」
二人揃っての酷い言い草、他人の嫁取り事情はいつの世でもいい話のタネだという見本だ。
「何をやっているんですか君たちは」
「よう天霧。 ちょっとこいつが無理難題言い出してよ」
近頃天霧は薩摩と長州の間を頻繁に行き来してやり取りをしている。長州の人間達に用事があり、それが終わったので不知火たちの所に顔をそうかと奥に行けば、不知火の遠慮のない笑い声が聞こえてきたではないか。
その不知火は、
が八瀬の連中に口をきいてくれなんて言うから困っているんだと目元の涙を拭いつつ肩を竦めてみせた。
話を聞いた天霧は、それなら自分が仲介に立つと言う。
「おいおい、いいのか? 八瀬の連中のド石頭と融通の利かなさときたら」
「それに絡んで、大変な報が入ったのです。 南雲君が綱道氏の元へむかいました」
「あ? あの顔は綺麗だが何考えてるかよくわからなそうなガキか。 土佐の南雲一族の跡取りがどうしたって?」
「彼の旧名は、雪村薫。 我々が得ようとしている雪村千鶴君の双児の兄です。 そういえば、お分かりですか?」
これには不知火もぎょっとなった。 鬼の世界では、東の一族を束ねる雪村家が滅びたのは有名な話だ。
だが近頃、滅びた当時幼かった雪村の女の子が生きていると分かったから騒ぎになった。
あの顔、女鬼に似てるなと思ったがまさか双児とは。
「……彼は、里と里を滅ぼした人間の身勝手さに強い憎悪を抱いています。 また、東の鬼族の復興も望んでいるとききました。 そのためにはある程度思いきった手段も仕方が無いと……」
「東の連中の復興は同族として俺も応援したい所だけどよ。 あっちは西以上に、人間どもの勢力に対抗できるだけの人数がいねえだろう」
黙って話を聞いて居た
は、天霧の『思いきった手段も仕方ない』という所にひっかかりを覚えた。
滅びた里から千鶴を救い出して、自らの娘として育てた綱道。
人の間に混じって暮さねばならない不遇、娘に鬼の血の事すら話してやれない事をどれだけ悔やみ、里を滅ぼした者たちを憎んでいたか
は見てきている。
彼もまた、娘の千鶴のために家を復興し、鬼の子としての良縁を見つけてやれれば……と話していた。
は、自分もまたあなた方の里を滅ぼしたのと同じ人間である自分に何故そんな身内の事を話すのかと聞いた事がある。
綱道もまた、不知火と同じような感覚で、自分を恐れず、また利用しようともせず、そこに『鬼』という自分たちとは違う生き物が存在するのに普通に接する奇特な人間は貴重だと笑う人だった。
綱道は人間の中で医者として様々な人と接してきただけに、人の目に宿る卑屈な色や濁った魂の様子が見えてしまう事があるのだと苦笑していた事がある。
悪い人ではない、だが。
羅刹による西国兵の強化が中止になったとはいえ、羅刹を鬼の一族の復興と人間の侵略への抑止力として使いたいと話していた綱道が望みを捨てきれているとは思えない。
東の鬼の兵力が少なく、だが自分の所に新型羅刹という兵力とその増強手段があるならなおさらだ。
しかもそこに、同じように故郷の復興を望む雪村の血筋の子供が加わるとなれば。
「……まずいな。 綱道さん、先ず間違い無く羅刹を率いてこっちにきますよ。 滅んだはずの里の主家の血筋が後押ししちゃったら、大義名分も立つ事だし」
「そういうことなら人間の戦場は素通りしねえか?」
楽観的な不知火の言葉を、
はそんなことはないと否定した。
「大量に血の流れる戦場は羅刹兵を養うのにもっとも効果的な場所ですよ。 羅刹の血を飲まされた者は羅刹になり、羅刹になった者は血を啜り続ける事で強さを増していく、そういうものです」
我々は、幕府を徹底的に叩き潰すためにまさにその大規模な戦闘を起こすべくあちこちで挑発行為をしかけている真っ最中ではないかと
は言った。
「戦場で死にかけた者は羅刹にして、労せず強兵を手に入れる。 半死半生なら、いちいちこの薬を飲めなんて契約したり脅したりする必要なんてなくなってきますからね」
そうしてネズミ算で羅刹の数を増やし、北上する戦線を辿りながらやがては目的地へと辿り着く事だろう。
そこで雪村の血筋の者が名乗りを上げて東の鬼をまとめあげ、永きに渡って人間どもに踏みにじられた誇りを取り戻すのだ、とやればどうなるか。
「お神輿役の薫さんにどれほどの求心力があるかわかりませんが、綱道さんの持つ羅刹の戦闘力は人間に一矢を報いる方法として迫害され続けてきた人たちにとっては強力な力として映るはずです。 そして変若水は、血が薄くなった鬼の力を取り戻す切っ掛けになり得るということを忘れましたか」
それは血の薄まった鬼たちにとってとても魅力的にうつるに違いない。間違い無く手を伸ばす者が出て来る。
こうなると、九割俺の予想が当たりますよと
は静かな声音で断じた。
「静かに暮すどころではなくなる、ということですか……人間との戦争も視野に入れなければいけないと」
「おいおい、西の連中が今どんな思いで戦ってると思ってるんだ! さっさとこの国の内乱片付けて、諸外国と渡り合わなきゃならないってときに鬼対人間の戦を起こそうだぁ? 冗談じゃねぇぞ」
しかもそんなもんに羅刹を投入するなんてとんでもない、待つのは地獄だと天霧も不知火も自らの想像に背筋を震え上がらせた。
「
君、もしその戦に羅刹を投入した我々鬼の一族が勝利したとしましょう。 その場合どういう未来が待つか予想がつきますか?」
天霧の質問に、
は暫し考える表情になり、
「最悪の予想でよけりゃ」
「それを聞かせて下さい」
「さっきも言いましたが、羅刹を養うには血が必要です。 人間の捕虜を餌に出来てる間はまだいいですが、戦争で噴出して歪んだ人間への憎しみが止まるとは思いませんね。 そのうち人間を羅刹の餌として家畜にしろなんて話が出て来るはずですよ、今まで自分たちがやられてきた仕打ちを思えばそんなの当り前みたいな風潮の元で」
勘弁しろ、想像したくねえと不知火が片手で目元を被う。
鬼とて他者を好く心がある以上、憎む心も等しくあるはず。なら
は考えられない事じゃない、むしろ想像するよりもはるかに現実になる可能性が高いと
は指摘する。
「で、鬼族の間に蔓延した羅刹の血は徐々に純血の鬼族も蝕んでいくでしょうね。 血の薄い方では徐々に侵食されてゆき、濃いほうでは羅刹の血を血統の入れるのを厭うあまりに血はどんどん濃くなる事もさけられない。 やがて血が濃くなったあまりに体や心に生まれながらの禍いを持つ子も出てくるでしょう」
今まで以上の苦労を背負い込む事になるのかと、天霧の表情も固い。
「で、諸外国は『鬼』の血に目をつけるはずです。 何だかんだで羅刹のような目立った弱点がないわけですからね。 その血を研究するべきだって外国に攫われていっちゃう鬼が出るでしょうね。その後の運命は俺も想像したくないです」
変若水の実験とはいえ酷いこともしてきたけれど、そんな自分ですら想像したくないような運命を辿る事になるのを保証できるよと
は首を振った。
「そうなる前に、この国から羅刹を一掃して、変若水も記録も綺麗に消し去って、後々の世に禍根一切を残さないようにするのが俺の理想です。 綱道さんの言う雪村家の再興は、鬼の皆さんが協力すれば何とかなるんでしょう? まだ手段があるのに、それぜんぶすっ飛ばして最悪の手段に走ろうとしてるんってなら、止めなくちゃ」
不知火はとうとう参ったと両手を挙げた。
「わかった。 んな未来想像もしたくねえや。 前々っからお前の言う事はよく当たるし現実味があるからな、まったく冗談にきこえねえのが恐いぜ。 それにお前みたいな奴が家畜なんぞにされたら、俺はあの世の高杉に呪われる」
魂だの霊だの常日頃信じてない不知火だったが、嫌でも信じなきゃならんくらいの勢いで化けて出られかねないと背筋を震わせる。
その上絶対その最悪の予想が現実になりそうな気がして恐い。
「それで、
君。 八瀬の鬼に連絡を取ってどうする気です?」
天霧の質問に、
は綱道が羅刹の素晴らしさと雪村家の復興、鬼の誇りの回復を訴えるのに先立って、鬼族の間に羅刹の危険性を広め、この国から一掃すべきものであることを明確な意思として全国に伝えてもらうのが最初の目的だと
は言った。
「……人間の戦では、朝廷を最後に手に入れた者が勝利者です。 鬼の間でも八瀬の御方が全国に命令を発する権限を持つというなら然りでしょう? 綱道さんが東の鬼に復讐をよびかけて勢力を広め、雪村の血筋を背景に多数意見として発言力を持つ前が勝負です」
八瀬の鬼たちが保守的な石頭だっていうなら逆に羅刹が存在してはいけない理由、鬼の血すら侵食する危険性をとつとつと説いて逆にその保守性を利用してやりゃあ話に乗りますよと
はにんまりと笑った。
「お前ほんっと、剣の喧嘩にゃ向かないがこういう喧嘩は得意なのな……」
恐い奴、と言う不知火に、
は其れを褒め言葉と受け取り笑みを深くする。
ただ最初人間が行っても門前払いの可能性が高いので、同じ鬼の一族に接触を持ってもらいたいのだと
は話を最初の点に戻す。
「元は人間、幕府が勝手にやった事の尻拭いのような真似をなぜ鬼がしなければならないのか、お前も研究者だというなら責任の一端を取って死ねくらいは言われそうですけどね。 そこは話の持っていきかたでしょう」
剣林弾雨の戦場ではないが、これもまた戦だと
は腕を組む。
「大丈夫、それはありませんよ。 何せ当代の八瀬の御方は、随分と破天荒な姫君で人間贔屓と言う事ですからね」
さっそく、八瀬と接触を取りますから数日待って下さいと言われ、
は頷いた。
そして、慶応三年、十二月九日。
王政復古の大号令が発せられた。
簡単に言うと幕府が政権を握る前の、天皇の元に政治と実権のあった時代に戻し、天皇の元に権力の在り処を統一することで政治における混乱を避け、混迷の時代を乗り切っていこうとする体制の大切替だ。
ただし、これには徳川幕府の廃止を含めて、朝廷側も今まで朝廷政治の実権を握ってきた上級公家たちをも一掃する目的も含まれる。
一部の公家と薩摩・長州上層部が主導権を持つ事を世に宣言したようなものだが、実際にこれで様々なものが変化した。
徳川家が権力を失った事はもちろんだが、その徳川の命令で作られた京都守護職、京都所司代が廃止。
それにともない、徳川家が遠隔地の統治を行うためにおいていた遠国奉行制度も廃止。 京都近辺の交通および流通の要地である伏見奉行所も閉鎖となり、西から軍団が京都に攻め上がっても足留めする徳川の拠点がなくなり、ほぼ素通りできる状態になった。
他にも様々な事が決定され、さらに凄い言い分も飛び出した。
徳川家は本気で将軍職を辞して朝廷に対して誠意を示すつもりがあるなら、官を辞して全国にある天領(幕府直轄地)を天皇に返上するべきだという、『辞官納地』を行うべしという意見も出てきた。
徳川にしてみれば、政権を返上しただけでも大事なのに、この上搾り取る気かといい加減頭に来ているに違い無い。
その日の夜、八瀬の里での会談を終えた
は長州藩邸に戻り、王政復古とそれにともなう一連の経緯を聞いて『お偉方はやることがえげつないや』とげっそりとした顔をしてみせた。
つまりは、『辞官納地』も半分以上は言い掛かり、戦争を徳川がわから仕掛けさせてこちらに後々の利を得るための挑発行為なのだ。
「よぉ、八瀬での話はまとまったって?」
「不知火さん」
一仕事終えた、というふうに
が部屋で転がっていると、不知火が庭のほうからひょっこりと入って来た。
「おつかれさん。 お前すげぇな、八瀬のド石頭どもをこの短期間で説得しちまうんだからよ」
「俺ひとりじゃさすがにまずかったですよ。 交渉には西の頭領の風間さんも力を貸してくれましたし……八瀬の姫さまがすごく物わかりのいい方だったのが本当に助かった」
彼女の決断の早さに、断固として命令を下す様に、周囲の者のほうがオタオタしていたくらいだ。
八瀬の姫の言うには、日本国の鬼は後の子孫のためにこの国から羅刹を排除するべし、という命令をすぐに各地に飛ばしてくれるそうだ。
鬼の足は人間の飛脚とは比べ物にならない。 半月もあれば南は薩摩から北は松前のほうまで知らせが行き渡るし、そのための協力は各地で得られるように手配してくれるとの事だった。
ただし条件がある。
羅刹を排除し綱道を説得せしめたとしても、それに関わった者たちが生きていると知れればまた人の世の権力に狙われるかもしれない。
それを防ぐために、事が終わったら俗世を離れて蝦夷地にでも渡るか、いずれかの鬼の里なら人間には見つからないだろうからそこで生涯を過ごすか選べという事だった。
その条件を聞いた不知火は、微妙な顔をして黙ってしまった。
「俗世から離れて死んだ事にして存在抹消しろってことですね。 妥当な条件だと思いますよ。 綱道さんや薫さんが納得するかはまた別として俺は構いません」
いずれにせよ、羅刹の知識は死ぬ以外にはこの頭の中から消せないのだから、責任とって自殺しろとか、厄介だから殺してしまえとか言われなかっただけまだマシだと
は思う。
「八瀬の長老たちは殺してしまったほうが後腐れないって言ってたんですがね。 姫さまが『鬼に人の命を左右する権限はない、いつから鬼は人を高みから見下ろして良い事になった』って啖呵切ってたよ。 格好よかったなぁ」
「噂以上だな、八瀬の姫さん。 まぁ、お前は事が片付いたら俺んところの里に来いや。 今度こそ姉さんも連れてよ。 どうせ新選組の羅刹どもも放っておくことはできないってあっちも言ったろ?」
「ええ。 数が少ないから戦で倒れてくれれば万々歳で手間がはぶけるんですけれどね。 最悪新選組にも攻撃しかけなきゃならないかなーって事になりそうですけれど、まずは綱道さんですよ」
羅刹を増やすつもり満々の綱道のほうが、優先的に止めなければならない相手だ。
取りあえず先手は打てたので、東の鬼たちに八瀬の姫の命令が行き渡れば復讐の名のもとの結束は防げるだろう。
「あんなもんで人も鬼も幸せになれるわけないし、羅刹になっちまった人だって悲惨なんですから。 ……俺たちの代で消しちまわないとね」
綱道には、遠からず同族の協力が得られない事で何をしたかがばれるだろう。
これで綱道さんを完璧に裏切る事になったけれど、いっそ腹が据わっちまいましたよと
は不敵に笑っていた。
どこか楽しげで、それでいて自信に満ちた笑顔は、不知火のよく知る人物に似ていた。
「(一丁前になりやがって)」
顔だちは全く似ていないのに、
の笑顔が泉下に旅立ってしまった親友、高杉の様子を彷佛とさせて、不知火は懐かしそうにほんの少し目を細めた。
◇◇◇◇◇
京都守護職の廃止に伴い、会津藩もその任を解かれ、会津藩の下にいた新選組も事実上雇い主を失った事になる。
新たな政治体制にうつるにともない、新職も設立されたがその職に徳川家がつくことは許されず、会津・桑名など佐幕藩の者たちは激怒した。
仮にも250年の永きに渡りこの国を動かして来た手腕も知識も経験、それらすべてを排斥する気が満々だ。
舵取りの引き継ぎさえ不要、表舞台からとっとと消えろと言わんばかりの露骨な挑発だったが、将軍・徳川慶喜は武力による全面衝突をさける考えあってこれを耐えた。
すでに将軍職は廃止され、慶喜は徳川という家の主にしかすぎない身だがいまだその発言力は大きく、徳川による250年の庇護を恩義に感じて従う者たちも多い。
この決定に怒ったのは慶喜本人よりもむしろその周囲たちで、事情を知らない下の者たちの間には主君の戦を避ける態度を『弱腰』と断じて憤る様子も見られた。
だがそれこそ、薩長の思うがまま。
薪とて、大きい薪にいきなり火はつかない。
下にある燃えやすい芝や雑木の枝があってこそ大きな薪に火がついて良い炎になる。
そして上から下から程よく風を送り込みよく燃えるようにしてやればあとは暫く放っておいても燃え続ける安定した炎になる。
上の意見、政治的判断は大事な事ほど下に公表されずに限られた人間が襖の内で決めてしまい、隅々まで総意が伝わらない徳川の命令系統の弱点を利用されきっているのだが、慶喜がそれに気付いているかは新選組の面々も分からない。
新選組が政治的に上か下かととわれれば、まだまだ下のほうに位地するだろう。
局長の近藤が旗本の地位を得て発言力こそ高まったが、譜代・親藩の発言力には遠く及ばないのが実情だ。
武力衝突、また京を戦場にする事を避けたい徳川慶喜は十二月十二日、京都二条城を出て大阪城に入った。
会津、桑名の両藩も慶喜に従い大阪に下り、新選組もまた京都を離れて大阪に向かう事になった。
だが十六日には伏見鎮撫を命じられて、廃止された伏見奉行所を本陣と定めそこに入る。
京阪の要所・伏見を戦を仕掛ける気満々の西国の連中が連中がを素通りができる状態にしておくのはいかにもまずい。 新選組なら前線にも慣れているだろうしうってつけだろうという事での配置だったが、もちろん新選組に否やはない。
奉行所への引っ越しは滞りなく進み、武器や荷物も不動堂村の屯所から手際よく移動させてたちまち腰を落ち着ける本陣としての様子が整った。
今にも戦が始まりそうな中、隊士たちの手を多くは割けない。
なのでこの引っ越しの指揮を取ったのは、もう随分長く幹部たちの側で小姓として仕えている千鶴だった。
小荷駄方の小者たちと、先日隊士募集したものの若年のために最前線に出られず隊士たちの世話役として在籍している少年たちを指揮して、隅々まで気の利いた手際のよい差配で進める千鶴の様子には誰もが感心していた。
「はい、皆さんおつかれさまでした。 個人の荷物はそれぞれが持っていってくださいね」
うっかり残しておいたら売り払って軍資金に回しちゃいますよと冗談まじりに言うものだから、隊士たちも急いで自分の荷物を引き取りに来た。
「おーい、武器弾薬と食糧、移動しおわったよ」
「あ、
さん。 ごくろうさまです」
も引っ越しの荷物移動には護衛として同行していた。
もともと小荷駄として大阪に後発させるために屯所に残しておいたそれら大荷物だったが、出発前に伏見鎮撫が決まったので行き違いにならずに済んだ。
とはいえ、武器弾薬に金子の移動などは略奪の為の襲撃も予想されるため、小荷駄や年少組の他に最低限の数の護衛もつけた。
幸いにして襲撃はなく
も千鶴も、引っ越しに関わった護衛の隊士たちもほっと胸をなで下ろしていた。
「それにしても、街から逃げ出す町人たちが増えていたな」
横でぽつりと言った隊士の言葉に反応し、
はそうだなと応えた。
「どんどん焼けの時を思えば逃げ出したくもなるだろうよ。 普通に暮している人にとっちゃ、どこまでいってもお上の事情は雲の上で見えないまま、どんな理由があろうと戦争なんてないほうがいいんだから」
あの大火事からだってまだ完全に立ち直ったとはいえない京都の町がこの上戦火に晒されたら、今度こそ町ごと滅ぶんじゃないか、そういって京都の方角を眺める
の横顔を隊士は見ていた。
もう新選組では古参の部類に入り、随分と長く幹部たちの小姓役をつとめ、前線で剣を振るいもした五条
が女だということはすでに隊内に知れ渡っている。
武装集団の中に女がいること、女が刀を持つ事、政治思想に関わる事に未だ不満を唱える者もいるが、半ば諦めと黙認の雰囲気が流れはじめてきている。
文句を言ってつっかかって行った者の半数以上は、だったら道場に出ろと実力で黙らされたという経緯もある。
男装してまで幹部の中にいることから『あれは幹部の誰かの色(情婦)で、彼等の枕元に侍るのも仕事のうちなんだろう』と下世話な噂を流されもしていたが、本人はカエルの面に何とやらで怒りもせずに好きなように言わせっぱなしだ。
長州に加担していた弟が捉えられた時にも、逃げ出す手引きしたのは実はあいつだと影口を叩かれて、その影響はまだまだ残っている。
いろいろと居づらい立場だろうに、何故ここに留まり続けるのか疑問に思う者も増えてきた。
の横にいたその隊士もそういったひとりで、ひと仕事終えた後の
の横顔を見れば、やはり女性らしい顔だちをしていると思ってしまう。
女だと判る以前は優男、優男、と囁かれていたが、態度も言葉も男だったし、女遊びはあまり好きではないようだが島原にも行くし本当に外見だけなよなよしているんだろうとしか思わなかった。
それだけに、女名前なのも本人が、『幼いころ病弱で、親が死神に見つからないお守り代わりにって性別と逆の名前をつけたんだ』と少し恥ずかしそうに笑って言うのを皆本気に取っていた。
新選組に入っているのだからいい機会だと思って、侍らしい名に変えちゃどうだと周囲がすすめても、女名前を疑念に思われるのも慣れているのか、『お守りだからな、気持ちだけうけとっておくよ』と爽やかに笑む様子に、皆もそれなら仕方ないなと笑っていた。
だが分かってしまうと、女性にしか見えないから不思議だ。
あの日自分たちと笑っていた青年と同一人物とは、どうしても見えない。
「お前は逃げんでいいのか?」
「は?」
荷車を片付けるから手伝えと言いかけた
は、その隊士の唐突な一言に首を傾げてしまっていた。
何を言われたか理解できないといった
の様子に、隊士はすこし苛ついた様子で眉をひそめ、
「このままここに居たら命の保証はないと言っている」
「脱走で切腹になるのと鉄砲玉なら、まだ鉄砲玉のほうがマシだね。 それとも何だ、世にもめずらしい女の切腹でも見物したいのか?」
隊士は、副長あたりなら容赦なくやるだろうなと一瞬思ったが、そうじゃないと控えめだが声を強くしてはっきりと言う。
「……自分が言いたいのはだな、その、男だったら最悪、なますに斬られても蜂の巣にされてもそこで終わりで済むが、女はなんだ、その……」
それだけじゃ済まない事もあるだろうと隊士は口籠った。
ましてや、戦場・修羅場に出た男は獣よりタチの悪い生き物になる。見て来ただけに判るだろうといいたげな隊士の様子に、
もポンと手を打った。
「ああ、そういうことか。 ドサクサまぎれにイロイロと」
「鈍すぎるぞお前」
まず考えるべき可能性だろうがと少し呆れ、そういう目にあわないためにもここを離れるべきじゃないのかと言えば、
はいつかのように笑った。
「今さら逃げて女らしくしおらしく震えてるなんて違和感ありすぎだろ。 自分でも想像できん」
は、スラリと腰の刀を抜いた。
澄んだ銀色を斜下に伸ばして、
は薄く微笑んだ。
「逃げて逃げて、誇りと命に代えても大事なものを守り通すってのもまた道なんだろうな。 ……けれど私にはその強さはない」
逃げるだけ、待つだけってのは想像以上に辛いもんだぞ、そこに大事な人がいつくたばるかも判らない場所で危険な目にあってるなんて事が付けばなおさらと
は独りごちた。
「逃げて、待って、結果の全てを受け止める……そういう柔らかい強さが私にはないんだ。 結局私の心はどこまでも、これの形をしているんだろう」
が刀に向ける視線は、まるで愛しい男の姿を眺めるようだった。
その横顔があまりにも美しくて、隊士は密かに息を飲んだ。
「むしろ動かず待つのが恐いから、これを手にとる道を選んだんだろう。 だからかな、女の体をしていて、あんたの言うような危険が迫るようなことになろうとも、私はこいつを裏切れないんだよ。 むしろ本当の意味で向かい合わなきゃならないのは、これからなんだ」
戦のない場所へ逃げる事はできる。新選組の追っ手をまく自信だってある。
だが、『逃げること』から逃げた自分が、この上どこへ行けるものかという
の清々しい笑みの前に、隊士は何も言えなくなってしまった。
かわりに、逃げる事から逃げた、という
の言葉を口の中で繰り返す。
「逃げて待って耐えて……そういう強さから目を背けた私は、女としては弱い心の持ち主なんだと思う。 何せ、待つ恐怖に震えるくらいなら、こいつと一緒に道を切り開いて、前のめりにつんのめるほうが何倍も楽だって思っちまったくらいだからな。 こいつを選んだ以上、それだけに弱くてもを逸らしちゃいけないもの、逃げちゃいけない道ってのはあると思うんだよ」
だから、何を言われようが逃げないさと
は笑みを崩さぬまま刀を鞘に納める。
「けどさ、心配してくれたのは嬉しかったよ。 どの口が言うかと思うだろうが、できればあんたも簡単にへこたれるなよ。 ああ、悪いんだけどこれ頼むわ、ガラでもない話しちまったから講料な」
早口で、幽かに頬を染めて。
死ぬな、逃げるなとは言わない
の微笑みの奥に、何か深いものを見た気がした。
荷車の片づけを押し付けられたというのにとっさに言葉が出ないまま隊士は自分より大分細い背を見送る。
緊迫する状況の中、近藤が馬上で狙撃されたという知らせが入るのはそんなやり取りがあった僅か数刻後の事だった。
前へ / 薄桜鬼・トップに戻る / 次へ