羅刹女 ---24---
深雪が去ってから陽も落ち、時間は夜半になった。
捕虜を凍死させないためか、一応布団くらいは与えられている。
姉が無事で、生きて戻れるなら自分には成すべき事がある。 それを考え、
は独り思案に耽っていた。
鬼族が羅刹の研究を黙認していたのは、ひとえに東の同胞の不遇を想っての事だ。
羅刹をつくり出す変若水が鬼の血まで汚染する劇薬であるとわかった以上、現状毒性を排除できないまま研究を進めてしまっては大変な事になる。
西の頭領である風間の命令で、すでに研究中止の命令が出ている以上、この上西側の羅刹兵が増えるようなことにはならない。
だが、
には一抹の不安があった。
綱道は、羅刹の弱点を『元の生物が超人的な力を得るかわりに背負った代償』とは捕らえず、『欠陥』と捉え、羅刹をこの国古来の鬼以上の存在にすることに執心していた。
ひとえに、東の鬼族の復興のための力であり、二度とあのような手で平和を蹂躙させないための抑止力として羅刹が必要なのだと綱道は言っていたが、
はそれを正面から信じていない。
鬼と人間の価値観は違いすぎる。 その谷間は千尋の谷より深く、底にわだかまるものは昏く澱んでいる。
たまに谷間に掛け橋が繋がる事はあっても、それは僅かな人が通れるのみ。
それさえともすれば足を踏み外し、奈落に飲み込まれてしまうような細い橋だ。
鬼と人が理解しあう事があるとすれば、歴史がそう望んだ時……近頃
はそう達観するようになっていた。
風間も、そんな
の言い分をおおよそその通りだと言っている。 また彼等は、この戦で先祖が薩摩藩から受けた恩義を返したらまた人とは関わりを持たない静かな生活に戻るのだと言っていた。
もともと、この国の天地(あめつち)とともに暮してきたのが鬼だからと。
古来、人も鬼も天地の一部であり、人間のほうがいつしか権力という魔物に取り付かれて天地の庇護を忘れてしまったのだと語ってくれたことがあった。
だが綱道は、風間のように天地に親しむ暮らしを望んではいない。
かつて羅刹の必要性を説いた綱道の目には、復讐の炎が明らかに燃えていたから。
それを実行に移す気でいるのを確信したのは先頃だ。
先日、綱道から届いた手紙は、とある実験の成功を知らせるものだった。
陽の光を克服した羅刹をつくり出す事に成功した、そう喜色一杯の文面で印されていた。
がそれを見て感じたのは、危機感だった。
本来の生物を羅刹として強化するにあたって、生物は様々な対価ともいえるべきものを支払わされている。
その一つが、昼夜逆転の生活と、陽の光に生体活動を制限されるというものだ。
人間は日光・月光両方浴びても何のこともないが、羅刹は陽の光を浴びる事で身体能力・再生能力を大幅に制限されてしまう。
最大の弱点ともいえるべきそれを克服したということは、それに相応しい対価……言うなれば『副作用』が出ているはずだ。
綱道はそれについても印してきていたが、問題ないという。
到底その通りには受け取れなかった。
陽の光を克服した羅刹を『新型羅刹』と綱道は呼んでいた。
この新型羅刹の事と、自分が西国にいる間に関わっていたそれの開発については新選組に話してはいないが、新たな力を手にいれた綱道が復讐の道に走らないという保証はどこにもなかった。
今さらながら、高杉や伊東の言葉が蘇る。
羅刹を使ってこの国の平和を勝ち取っても、百年後の暮す人々の幸せを本当の意味で守った事になるのか。
二人とも立場が違い、志なかばに倒れる事になったが、人の手によってしか人の世の中は変えられない、その想いを貫いた人たちだった。
『羅刹をこの時代の者が止めなければ、日本国はこの先ずっとあの業を背負って行く事になるのよ。 自分の親しい人や、子や孫がいつ狂って血を啜る化け物になるか、それとも隣人に喉笛杭食いやぶられやしないかとおびえる生活を送る羽目になる、そんな未来に、あなた耐えられて?』
御陵衛士の元に遊びに行った時、伊東がそんな風に言った事があった。
『あれのことを新選組から離脱するダシにはしましたけれどね。 たとえこの伊東の命が危うくなろうと、必要とあれば幕府があれを使ってやっていたことを公表し、証人になるのを厭う気はありませんわよ』
そうして、人の手でこの国は生まれ変わるのだと伊東は誇らしげに話していた。
「……俺が、すべきことは」
鬼たちの立場に関わり、そういった人たちの志に触れ、羅刹の研究の最前線にいた自分が成すべきこと、それは。
その時、土蔵の外で物音がした。
思わず身構え耳をすませば、外の錠前を開けたらしい重たい音がした。
まだ詮議があったか、それとも、と目つきを鋭くしてそちらを睨み付けると、数日前時分を地面に叩き付けてくれた筋肉達磨と槍使いの二人が足音を忍ばせるようにして入ってきたではないか。
「しーーーっ。 大声たてるなよ」
「ほら、手ぇ出せ」
近くに寄ってきたかと思うと、手鎖の鍵を外してこっちへ来いと言う。目を丸くしていれば、槍使いのほうが、
「どうした、逃げないのか? このまま明日まで居たら百叩きだぞ」
などと言うではないか。
丸くしていた目を怪訝そうに細めて、
はその場を動かずジト目で二人を睨み付けた。
「二番組の永倉に十番組の原田だっけ? そりゃ、脱走したやつを斬っちまっても何も不自然じゃないしな」
脱走を促しておいてのその手に乗るか、と
は舌を出してみせた。
ところが永倉が、違うと手を振る。
「ウチの副長、ひねくれてっからな。 自分は組織の上に立つ者として処断しなきゃならねえ、かといって
ちゃんは情にながされて身内を助けましたなんて事はどう転んでもできねえ性格ときてる。 だから、処断までにわざわざ一晩あけて、この間にどうにかしろって事だから俺たちが来たのさ」
「それともお前、姉さんが本気で『百叩きになっちまえ』なんて思ってるとでも言うのか?」
永倉に次いで原田にも言われ、
はそれは思ってないと言う。
百叩きといっても立派な刑罰だから、平手で尻を叩くような生温いものではないことくらいはわかっている。
「……姉さんに、半分自分を叩けなんて言わせねえためにもさっさと逃げろ。 ほら、こっちだ」
原田の一言に、確かに姉ならそう言いかねないと思った
は意を決して立ち上がった。 背中から斬られる懸念は抜けきらないが、五体満足に逃げられるというなら乗らない手はない。
こっちに来いと案内されたのは、何と幹部たちの部屋がある方。
このほうが門を抜けたり土蔵の裏から壁をこえるより見つかりにくいとの事だった。
「なあ、ここが幹部の部屋だっていうなら、沖田って人まだ此処にいるのか? それとも、あれ労咳だろ、悪化させて死んじまった?」
先導する永倉と原田は、ぴたりと足を止めて顔を見合せ、それからおそるおそるといった風に
のほうを振り返った。
「ちょっとこっち来い!」
「いや、俺の部屋のほうが回りに人がいねえ、こっちだ」
袖を引かれて原田の部屋に引っ張り込まれ、二人からそりゃどういうことだと詰め寄られた。
半分しりもちをつくような格好で座った
は、二人の剣幕にちょっと驚きながらも思った通りの事を話した。
「俺、兄分を労咳で無くしてるから、大体の様子で分かるよ。 あんな、肉がそげ落ちた体で目だけが濡れて爛々と光っててさ。 息をするだけでも胸が痛いだろうから自然呼吸がおかしくなるし大立ち回りなんかできやしないし、下手すりゃ大声だって上げられないはずだよ。 沖田って人と少し打ち合ったけれど、ブン殴られて気絶する寸前、咳き込んで血を吐く所もちらっと見たよ」
あれは一分一厘の疑いすらなく労咳だろう、それももう治癒の見込みのない段階まで来てるそれだろうと言う
の言葉に、永倉も原田も愕然とした顔をする。
近藤も土方も、また本人も『風邪が長引いているだけだ』と主張していた。
それを聞いた
は自分がお情けで逃がしてもらう身だということも忘れ、辛らつな言葉を吐いていた。
「それを真に受けてるほうもどうかしてるけど、あんたらにそんな顔をさせることになって、一番悪いのは病気を認めたくなくて見てみぬ振りをしていた上役連中や、その状況に甘えていた当の本人だよ」
多分に、高杉の無理無茶をとめる事が出来なかった自分への自嘲も含まれていた。
本人は命を使い尽した気になってそれで良いのかもしれないが、周囲への影響も少しは考えてほしいものだと、高杉の霊に文句を言えるならそれだけは言いたいと近頃思うようになっていた。
「……返す言葉もねえわな」
「ああ」
近藤さんや土方さんが現実逃避に走ってるなら、仲間として俺たちが何とかしなきゃいけなかったのによ……と、自分たちの失策を心から後悔する顔で、永倉と原田は肩を落とした。
「……ごめん、言い過ぎた。 二人とも、上役や本人に言うつもりなら、俺がばらしたって言えよ、そうすりゃとばっちりは最低限だろ」
「いやいや、いいってことよ。 何だ、話してみると悪い奴じゃねぇなあ」
そういうズケズケ物をいうはっきりした性格は好きだぜと、永倉に頭を撫でられて
はムッと彼を睨めつけた。
自分はそんなに子供っぽく見えるのだろうか。
「そうだ、どうせ腰を下ろしたんならついでに聞いておくか。 お前さ、姉ちゃんの事、今回の事で嫌いになっちまったか?」
「そんなわけないだろ!」
思わず声が大きくなってしまい、
はあわてて口元を押さえた。原田が大丈夫だと言うと、そろそろとその手を外す。
「別々の道を進む事になったからって、俺が姉ちゃんを嫌いになるはずなんてないよ。 ……むしろ、今までお互いがお互いのために人生使ってきたみたいなフシがあるから、ここらで自分のために人生使う道を歩けって事だと思ってる」
「お互いが、お互いのために?」
「うん。 姉ちゃんは、母ちゃんが死んじまったあと、体が弱くて剣術に向かないばっかりに親父に白い目で見られた俺をずっと守ってくれたし、俺もそんな姉ちゃんを守れる男になりたくって京に出てきたんだ。 けど、お互いひとりでしっかり立てる、歩けるって確かめあえた今、『守る』ってのは何も側に居て目を放さない事だけじゃないって、そう思うよ」
「そうか、安心したよ」
永倉も原田も、本当に喜んでいる様子だった。
それが
には意外で、今度は自分も聞きたいことがあるのだが良いかと訊ねる。
「ああ、何だ?」
「あんたたち、姉ちゃんが死んだって言ったとき、血相変えてたろ。 ……あれさ、信じていいか?」
「野暮な事聞くんじゃねぇよ。 むしろ俺たちが、お前の大事な姉さんをこのままここに居させてくれって言わなきゃいけない所なんだぜ」
そう言う原田の目は優しい。 永倉の目も同じくだ。
あの日血相を変えていった者たちでこの場に居ない者もいるが、これなら大丈夫だろうと思い、
は大事な人から預かり、ずっと心に留めている言葉を口にした。
「人を好いた惚れたというのはな、家の都合や血筋で決まるものじゃあない。 その人の心に住めるか、住まわせてもらえるか……そういう事、か……」
「何だ、随分詩的じゃねぇか」
「こいつに詩的なモンを理解する情緒があるとは思えないがね。 で、何だい? 誰かの言葉かい」
さらっと嫌みを言って永倉に小突かれる原田だったが笑みは崩さない。
「俺の大事な兄分の言葉さ。 ……姉ちゃんの心は新選組に住んでいて、あんたたちの心にも姉ちゃんが住んでる。なら、大丈夫だろうって思ったよ」
お互いにこの先いろいろ危ない事になるとは思うけれど、俺は俺の成すべき事で大切な人を守ると言う
に、原田は一層笑みを深くした。
「……もうひとつ、我がまま言っていいか。 沖田って人がまだ生きてるなら話しておきたいことがあるんだ。 変若水の事で」
表情を真剣なものに変えて言う
に、永倉も原田も表情を引き締めた。
どうやら、穏やかではない話のようだ。
「様子からすると、近藤や土方って人には話しても隠されちまいそうだし、山南って人も黙殺しそうな内容だからさ。 ……だから、あんたたちさえよければ一緒に聞いておいて欲しい内容なんだけれど、どうかな?」
「わかった。 じゃあ、総司の部屋へ行くか」
こっちだ、と先導されて入った部屋には寝床が述べてあり、枕元には薬や水が置いてある。
灯りをつけていないので、縁側から障子ごしに差し込む月明かりだけが頼りだったが、3人は足音をたてないようにして寝床の脇に陣取った。
「新八さん、左之さん……? ああそれと君か、生きてたの?」
目をうっすらとあけて気配の主を確認すると同時にこの言い様なものだから、
の顔が僅かに引き攣った。
こいつはこういう奴だ、気にしたら負けだと原田が苦笑とともに教えてやる。
「総司。 こいつがな、俺たちに姉ちゃんにも近藤さんにも土方さんにも内緒の話しがあるんだとよ。 暫く起きてられるかい」
「嫌だなあ、そんな重病人扱いして。 大丈夫、起きれますよ」
身を起こそうとする沖田の様子に、
は隣に座る永倉に布団ごと背中に何か入れて、上半身が少し斜になるようにしてやってくれと言う。
この場合、横になって伸びているよりそのほうが息が楽になるからと。
「あいよ。 ……ほら、これでいいか?」
「うん、さっきより少し喉が楽かな……」
永倉が予備の布団を丸めて背中に置いてやると、それにもたれた沖田は喉元を撫でてうっすらと微笑んだ。
その動きの拍子に、白い寝巻きのそで口から見えた腕のやつれ具合に、永倉も原田も息を飲み込む。
いつの間に、というのは愚問だ。
自分たちも、都合良く見て見ぬ振りをしてきた近藤や土方たちと同類の罪を負っているのだから。
「で、話ってなに?」
「沖田だったね? あんたのその病気については何も言う事ないけれど、変若水はもう持ってるだろ」
再び息を飲む永倉と原田の横で、
と沖田はにらみあう。まるで剣を交わしているかのように。
「どうしてそう思うのさ……?」
「変若水なら、その病状を一時的にでも押さえられるからだよ。山南って人が渡していない訳がないと思って。 けれど知っての通り、副作用が凄まじいけどね。 新選組じゃ今までどういう研究がされてきたかは知らないけれど、結論から言うよ」
自分は一度、あんたと同じ病気の人に変若水を飲んでくれと縋った事があるのだと前置き、
「確かに、変若水を飲めば爆発的に肉体の治癒能力は高まって一時的に病気の症状を押さえられる。 けれどそれは火をつけて水をかけて、また火をつけて水をかけるみたいな事を繰り返しているにすぎないから、本来の生命力は普通の羅刹に倍する速度で消費され、その分血に狂う頻度も上がる」
病気の根治は望めず、さらに余計な危険もついてくる。
けれど、今よりも『時間』が必要ならば、延命の目的で飲むならばその目的だけは果たせる。
だが問題はここからだと
は言った。
「俺は西のほうで変若水の研究の最前線に居たから見てきた。 羅刹が血を求める時、どういう種類の血を求めるか」
羅刹は血に対する味覚がある。人間に味が分かるように、旨い不味いをきちんと区別しているという。
味噌でも醤油でも、仕込み手が違えば味が変わるように、それくらいの微妙さ加減で見る事もできる。
「彼等が理性を無くしたときに、一番渇望する『血』がどういうものなのか知っておいて欲しい。 その上で、変若水を飲むかどうか決めればいい」
そうして
が話した事は、沖田たちにとって恐るべき内容だった。
永倉、原田だけでなく沖田までもが言葉を失い、嘘じゃあないだろうなと
に視線で確認を求める。
だが
の目はどこまでも本気で、嘘を言っている様子など微塵もなかった。
確かにこれは、近藤にも土方にも、山南にも言えない。 そういった類いのものだ。
永倉は恐ろしい話の間に知らず背中を滑り落ちた冷たい汗を自覚して震え上がり、原田もまた薄闇の中に羅刹となった平助の姿を垣間見た。
その時だ。
表のほうで、どこか聞き覚えのある銃声が響いたのは。
「この銃声……不知火さん!? 嘘だろ!?」
まさか自分を助けにきたのかと、
は膝を浮かしかける。
表がにわかに騒がしくなり、幹部部屋のほうにも足音がいくつも近付いてくる気配がした。
「新八さん、左之さん!」
「おうよ、俺らが行かないと怪しまれるわな」
「総司、悪ぃ。 後たのむわ。 お前もぐずぐずしてんじゃねぇぞ」
永倉と原田は急ぎ部屋を出ていった。
残された沖田は枕元の刀を杖にするようにして立ち上がり、外に続く障子を開け放つ。
「ちょっとあんた、冷たい空気は」
「いいから! まさか僕の部屋から逃げるなんて誰も思わないでしょ。 さ、そこの庭石づたいに逃げられるはずだよ。 行って」
どうせ処断までに時間開けたのって、土方さんが遠回しに『見ない振りしてやる』って事なんだからと、沖田も永倉たちと同じ事を言った。
不知火にあまり大暴れさせるのもまずい。此処は自分が無事だと見せて逃げてしまうのがいい。
だが、敵だというのに妙に後ろ髪を引かれ、
は庭に飛び出た後一度ふりかえった。
縁側に立った沖田が静かに微笑んでいる。
「さっきの話、本当にありがと。 ……知らないままじゃなくてよかった」
月光に照らされた沖田は、泣きそうに表情を歪めた。
「さあ、行って。 もうドジ踏んじゃだめだよ」
「あのさ」
何かあるの、と首をかしげた沖田に、
「ここでなら、姉ちゃんの心に住む人は家も立場も関係なしに姉ちゃん自身が決められる。それが鬼だろうが人斬りだろうが死病病みだろうが関係なくね。俺、そのことに凄く安心してるよ。 悪いけど、詳しい事は永倉と原田って人に後で聞いて!」
早口でそう告げて、沖田の姿から視線を振りきり、
は庭石から塀によじのぼり、何とか通側へと降り立った。
そのまま表に走れば、不知火がいつもの拳銃片手に大立ち回りを演じているではないか。
しかも罵声まじりだ。
「てめぇ、実の弟だろうが! 鬼より鬼だなこの……」
「……鬼でけっこう! 一人前の男に筋を通させて何が悪いか言ってみな!」
しかも喧嘩相手が姉だ。
あちゃあ、と額を押えつつも不知火に自分の無事を知らせるべく
は走った。
「不知火さん! あんた何してんですかーー!」
「おお!? 何だ逃げられたのか! 心配させてんじゃねぇよこの馬鹿野郎!」
逃げてきたとわかりゃ、取りあえず今夜は終いだと不知火は威嚇射撃を先頭に立って斬り込んでくる
と後続の隊士に浴びせ、身を翻した。
とにかく追撃を逃れるためか、けっこう体格の良い
の体をひょいと抱えて走っていってしまう不知火の背中に一通り罵声を浴びせかけ、
は銃弾が擦った頬を手の甲で拭った。
土蔵に押し込めと居た悪ガキが逃げたのは『薩長の間者』の仕業です、ということになった。
昨今どこの組織にも間者のひとりやふたり入っているだろうから新選組にもいたっておかしくはないが、それをあぶり出す絶好の機会と状況を利用する土方の遣り手っぷりに、
のほうが呆れてしまったくらいだ。
昨夜弟が逃げた事については、『もしや』と思い副長室での仕事の合間に土方の顔を伺ったが、千鶴の持って来た茶を啜りながら、
「礼なんか言うんじゃねぇぞ。 次に新選組の前に立ったらぶった斬る気満々なんだからな」
と物騒な事を言われてしまった。
日頃から、素直じゃないだのひねくれてるだの永倉たちが言っているが、なるほどと思う。
故郷へまとめて送る予定だという手紙の束を手箱に纏めて、
は一旦休憩を取るべく一礼して席をはずした。
「沖田さんの所へ行ってきます。 ……大分、調子も良いみたいですし」
「……おう」
沖田の体調の話が出ると、最近の土方は表情を暗くする。
あの日、
が最初に沖田が血を吐いたのを見た時、沖田本人は黙っていてくれと言った。
一度黙っていると約束したことを破る気にもなれず、こうして今日まで来てしまったが、土方にももう分かっているのだろう。
小春日和が続く冬の京。
それぞれの想いを胸に、歴史は大きな転機を迎えようとしていた。