羅刹女 ---20---


「京に名水名井(めいせい)は数あれど、さすがに千年ものの魔都の水はどこも駄目だなァ」

 長州藩邸。  は陽の入る縁側に面した一室で書き物をしていたが、ポイと筆をほうり出して畳の上に寝転がった。

「取り寄せてみた江戸の上水も駄目、この分じゃ大坂や伏見の水も向かないな。 むしろ毒性強くなる気が……」

 先程から帳面に書き付けていたのは、変若水の調合における各地の水との配合結果だ。
 不思議なもので、変若水の毒を薄めるものあれば、逆に強めてしまうものもあり、土地土地によってまったく調合結果が異なった。
 こうして結果を纏めてみると、人口が多く人が長く住む土地ほど毒性が強い傾向があるようにも思える。 逆に人があまり足を踏み入れない深山幽境で採取した水は毒性を薄める効果がある。

「……京都の水は元がいいのに長年の澱が溜まった感じで打ち消し合って効果が消えちまうんだろうな。 良い酒が作れる名水と変若水の毒を薄められるのとは違う……と」

 それが分かっただけでもよしとしなければ、と は起き上がる。

「は〜〜、いっそ蝦夷の奥地の水でも使えばいい気がしてきた」

 あそこだったら確実に人の手は入ってないだろうし、深山幽境の霊気こそが変若水の効果を調整するのに必要ならば、それこそ最大の効果が得られるような気がする。
 ただ遠すぎてまず手に入らないから、この結果から導き出せる推論でしかないが。

「いますか、 君」
「あ、はーい」

 縁側から声がしたので出てみると、天霧が来ていた。 薩摩と長州は協力関係にあるから両藩の者が行き来することは珍しくないが、天霧がわざわざこちらに来るのは珍しい。

「どうしたんですか、天霧さん」
「いや、風間様が『あれはまだ下らない研究に手を出しているのか』とぼやいていたので。 様子を見に来ただけです」
「あー……それ言われちゃうと弱いなあ」

 綱道さんとは別にちょっと調べなきゃならないことがあるからもうちょっとやらなきゃ、という に天霧は渋い顔をした。
  は文机の前にずらりとならべていた徳利を盆に乗せ、縁側から庭へと下りた。 庭には筵が広げられて、その上に白砂がまいてある。
 徳利の中はそれぞれの土地の水で割った変若水だ。 それを次々と白砂の上へと撒いていった。

「何をしているのです?」
「変若水を処分しているんです。 こうすることで、他の生物にほぼ害を及ぼす事なく処分できるんですよ」

 前にもったいないからと思って鉢植えに撒いたら、妙ちきりんな色の人食いアサガオになっちゃって、と はバツが悪そうに笑った。
 何せその時は、朝顔のくせに昼夜関係なしに花を咲かせるわ、蔓を伸ばして近くを通りかかった犬猫捕まえて吸血するわで、いっそ根っこで歩き出さなかったのが不思議に思えたくらいだ。

「うっかりしてたら俺もちょっと血を吸われちゃいましたし。 いやあ参った」
「種をとってあったりしないでしょうね?」
「まさか! さすがに株ごと燃やしましたよ。 あんなの薮蚊よりタチ悪いや」

 不知火が、あいつは頭はいいが時々突拍子もない悪戯をするから気をつけろと言っていたが、なるほどと思った。

「鉢植えで良かったですよ、あれが垣根に植えてたとかだったらシャレにならなかった。 それで懲りて、日光に当ててパリパリに乾かしてから砂ごと火にくべるようにしてるんです」

 でもそれで、いちいち生物を使わずとも植物を使って変若水の毒性の強弱を調べる方法が分かったのだから何がどう吉となるか分からないものだ。
 徳利にはそれぞれ季節の花が挿してあり、本来の色とは違うものに変化している花や、毒性が強すぎるのか灰のように白くなるまで枯れてしまっているものなど様々な反応を見せている。

「羅刹は『鬼』にはならない。 これが、俺が研究した結論です。 羅刹はあくまでも羅刹。 いかに変若水の毒を薄めようが、一定枠の中で能力を差し引きしているにすぎません」

 血に狂う率を下げたくば、基本能力を落とすしかない。 逆に基本能力を上げたければ、血に狂う頻度が高くなる。
 人体をそういう生き物として変化させる薬ではあるが、この国古来の『鬼』を作る薬ではない。

「……そして鬼の血にも、そういう力はありません」
「何故、そう思います?」
「鬼の血に新しい鬼を作れる力があるなら……不知火さんがとっくにあの人に自分の血を飲ませていたでしょうから」

  はそういって、寂しそうに笑った。
 強靱な肉体と脅威の回復力、そして少々の病など寄せつけない生命力……そういったものをあの男に分け与えられるなら、それこそ我が身を切り刻んででもそうしていただろう。

「そして、そんな不老長寿の薬であるなら、鬼はもっと人に狩りたてられていたはずです。 なのにそういったものを欲しがる権力者や金持ちが寿命に逆らえずパタパタ死んでるってことは、つまり、そういうことなんでしょう?」
「相変わらず、君の察しの良さは大したものです」

 君の言う通り、鬼の血にそういう力はないと天霧は断言した。

「けど、それを信じない人もいるってことです。 ……綱道さんはあなた方に、血を提供するように言ってきませんでしたか」
「何故そう思います?」
「綱道さんはありとあらゆる可能性を試そうとしています。 この間手紙である実験成功の知らせがきましたが、もう暴走に近い。 ……手紙の中に、鬼の血についての可能性、それもなるべく血の濃い、鬼本来の能力を失っていない血が研究のために必要だとありました」

 綱道は羅刹を鬼以上の生物にするべく躍起になっている。
 鬼と親しいお前に其れを手にいれてもらいたいと手紙にはあったが、 は京での研究結果と一緒に単純に『お断りします。 それ以前に無理ですから』とだけ書いて要求をつっぱねる手紙を返した。

「綱道さんは、もう放っておいたらどこまで行くか分からない。 少なくともあの人は、羅刹によって成されるこの国の変化を望んではいなかった」

 藩が戦力強化のためにと研究をすすめる事を決定してもなお、人の世の世直しは人の手によって成されるべきだと唱えて引かなかった高杉。
 その彼が、変若水を拒んだ理由……人として死ぬ事でその主張を貫き通したのだということが、近頃ようやく身に染みてきた。
 最初は彼を助けたい一心で研究に励んだ。
 だけれど、彼は助かる手段が目の前にありながら、延命よりも人の天命に殉じる事で、魂の在り方を教え、最後に道を示してくれた。

「……俺はあの研究に関わった者として、いざって時に綱道さんを止められるだけの手段を持たなきゃいけないんです。 羅刹を作る事自体が外道もいいところですが、外道なりに道を外れようとするなら、同じ道を歩いた者が止めなければいけないでしょう」

 だから自分が今研究しているのは、綱道に協力するためだけではない。
 いざと言う時に、彼の暴走を止め、変若水の毒を消し去り、果ては羅刹という存在そのものを消す事ができるその方法を探すためだから、まだ研究を止める事はできない。
 そう風間に伝えてくれと、 は天霧にすまなそうに頭を下げた。

 その下げた頭に、天霧はまたもポンと手を置く。
 ぴょこんと頭を上げてその手をのけた が『また!』と頬を膨らませる。
 天霧の顔は、闘いの時の厳しいそれではなく、常よりも穏やかな笑みを浮かべていた。

「……随分、男らしくなったものです」
「これで本当にそう思ってますか……?」
「ええ。 己の信念と、己以外の者のために命がけで戦う事を決めた、一人前の男の目をしていましたよ」

 武器や弁説ばかりが戦いではない。
 譲れないもののために、己ではない誰かのために、形は違えど戦う意志を持つ者はみな志士だ。

君。 その徳利を貸してごらんなさい」
「え? これですか」

 不意に話を変えてきた天霧に、何なのだろうと思いつつも は徳利を一本渡す。
 天霧は縁側から室内に入ると、文机の所にあった紙を切るための小刀を手にして縁側に戻り腰掛けた。
 そうして床に置いた徳利の上で曲げた自分の肘のあたりに小刀をざくりと突き刺した。

「!!」

 何を、と言いかけた の動きを、天霧は穏やかな視線だけで制した。
 鬼の体はすぐに傷など塞がってしまう。なので天霧は自らの身体に突き立てた刃を捻り、傷口に空気を入れる事で滴る血の流れを早くする。
 肘から伝い落ちた天霧の血が、ぽたぽたと徳利の中へ溜まってゆく。
 半分ほど溜まった所で、天霧は小刀を外した。
  の見ている前で、傷はすぐに塞がる。

「不知火さんといいあなたといい……鬼だって、傷ができれば痛いくせに何て事するんですか!」
「私がそうしたいと思ったからですよ」

 その血がどうのこうのと聞いて来るよりも先に、傷などすぐに塞がる鬼の身を案じて来る。
 この青年本来の優しさなのだろうが、天霧はそれをとても好ましく思っていた。

「不知火が彼の惚れ込んだ人間のためになら、我が身を切り刻む事を厭わないだろうと先程言ったでしょう? 私もそうしても惜しくないと思ったからこそ、こうしたのですよ」

 この血を、君の研究に役立てろと言われて は息を飲んだ。

「ただし、風間様や不知火、綱道氏には秘密です。 君自身の研究のために使いなさい」
「どうして……」
「私も血が濃い部類に入りますからね。 人を鬼にしたり、不老長寿の薬にはなりえませんが、鬼の血に羅刹を救うなにかの可能性を見出せるなら悪い話ではないでしょう」

 生憎私では込み入った研究は出来ないので、君に託すのですと言われ、 は天霧の手から徳利に入った彼の血を受け取った。











◇◇◇◇◇












 九月に隊士募集ために江戸下りをしていた土方が、十一月のはじめ、京都に戻ってきた。
 大津宿まで出迎えに出た隊士たちと一緒に戻ってきたはいいが、戻ってくるなり大忙しだ。

 侍の元締めである徳川将軍が、政権を朝廷に返上してしまった。 
 この『大政奉還』により、迷走していた日本という国の舵は大きく動く。
 末端の町民まではさほど影響は出ていないが、政治の表舞台では上を下への大騒ぎになっていた。
 そして、新選組不動堂村屯所の広間でも。
 幹部一同が集まる中、お前等も来いと呼ばれたので千鶴と も出席していた。

「は? 暗殺? その上新選組に嫌疑ぃ?」

 坂本竜馬暗殺。
 その名を聞いた時に、 は『確か土佐藩の藩士で、幕府と朝廷を一本化して政権の在り処をはっきりさせて、さらにこの国の舵取りを有力諸藩の代表による合議によって決める【議会】とかいう新しいやりかたを提案した人物』だったかなと思いだしていた。
 いままでのようにお上がすでに決めた事を下知するのとは違い、議会では多数決という方法でより多くの意見……ひいては民の意見を反映させた政治が出来るのだという。
 何にせよ変わったやり方だと思う。
 『船頭多くして船、陸に上がる』の例えのように、物事を決める頭がいくつもあったのでは逆に大変なのではないかと思ってしまう。
 所が国際的にはすでに一般的な政治形態であり、日本国のようにひとりの独裁者が決定権を握るのはむしろ国に不利益をもたらす、と考えられる節もあるというから驚きだ。

「坂本暗殺……って、一時期はあちこちの勢力が『何としても捕縛しろ!』って血眼になっていましたけれど、政治的な判断から新選組じゃあ手出しするなって言われていた人物ですよね? 誰かうっかり殺っちゃいました?」

 と言って、 は傍らにいた沖田に視線を流す。視線に気付いた沖田はいやいや違う、と手を左右に振ってみせた。

「僕じゃあないよ。 ここの所屯所から出してもらえない日のほうが多いし」
「……夜中こっそり抜け出したりとか、してませんよね?」
「してないって。 何でまっ先に僕を疑うのさ」
「自分の胸と腹に聞いて下さい。 日頃の行いが行いでしょう」

 取りあえず違う、と本人の確認が取れた所で、井上の口から『坂本を暗殺したのは新選組の仕業、しかも実行犯は原田だ』という話を聞かされ、皆の視線が一気に原田に集まった。
 原田だと断定した証拠というのが、坂本のいた部屋に入ってきた暗殺者は顔を隠していたものの、ひと太刀為損じた時に『こなくそ』という伊予弁を口走ったのと、現場に鞘が落ちていたのが証拠になったらしい。
 その鞘というのが新選組の原田の持ち物であり、原田の出身地が伊代松山、とっさの場合に言葉にお国なまりがでるのはごく自然な事だから、という話だ。

「俺の鞘はここにあるのに、証拠もなにもないだろう」

 そう原田は主張するが、世間がそう見てくれるかどうかはまた別問題だ。
 この件に関して世間の噂の広がりが異様に早いのも気になった。 もともと坂本という人物は敵の多い人だったが、個人的な怨恨があった紀州の三浦休太郎が新選組に依頼して殺させた、というのがもっとも有力な説として世間に広まっている。
 この件について事情を聞かせろという問い合わせも来ている。
 幹部たちの意見は『言い掛かりだろう』という事だったが、 もそれに賛成だった。
 大体、原田の鞘はここにあるし、新選組幹部が動いた事なら他の幹部たちが知らない訳がなかろうし、坂本ほどの重要人物を暗殺するなら局長から何かしら話があるだろう。

「……暗殺者がその場にあからさまな証拠を残すもんですかね。 芝居くさすぎますよ」

  がそう言うと、幹部一同も頷く。

ちゃんの意見に大凡は賛成。 山南さんが勝手に動いたなら別だけれど」

 沖田の言葉に、皆が静まり返った。
 夜の巡察は羅刹隊が主力となっているが、最近のやりかたは度を過ぎていると原田は言った。千鶴も何かを思いだしてか、自分の肩を抱いて寒気を押さえるような様子だ。
  も近ごろ羅刹隊の部屋のほうに用事があって山南と顔をあわせた時にも思っていたが、あれは……。

「なんていうかこう、お腹がすいてるときに美味しそうなもの見る目で見られた気がした」

  の発言に苦笑いで返したのは永倉で、

「その例え、冗談になってねえぞ……。 俺らで気をつけるしかねえよな、羅刹隊の存在を表に出す訳にはいかねえんだ」

 そこまで話をした所で、廊下のほうで二人分の足音が近付いてきて、カラリと障子が開いた。
 遅れていた近藤と土方が広間にやってきたが、二人とも難しい顔をしている。

「……その件についてだが」

 その声に続いて、もう一つ足音が近付いてくる。 入ってきた足音の主の姿に、先に広間に集まっていた一同は思わず目を見開いていた。

「斎藤!? ……何でここにいんだよ!?」

 永倉の素頓狂な声。千鶴も も思わず目を擦る。消えない、ということは幻ではない。

「おや、斎藤君じゃないか、久しぶりだねえ。 御陵衛士のほうはどうしたんだい?」

 のんびりとした井上の一言に、その場の誰もが『井上さん、あんた大物だ』と思った事だろう。
 けれど斎藤は井上の変わらぬ態度が嬉しいのか、彼に視線をむけると口元をわずかに微笑ませて軽く頭を下げた。

「そ、そうじゃなくて井上さん! 交流禁止の御陵衛士の人がいるなんて、土方さんが許す訳――」

 千鶴の言葉に、幹部達の目が『そうだそうだ』と言う。
 だが土方はごちゃごちゃうるせえと一喝すると、本日付けで斎藤は新選組に復帰するのだと告げた。

 またも皆の目が見開かれる。
 それは、自分たち的には嬉しい便りだが、それでは御陵衛士というか、伊東派の立場がないのではないか。
 だがその疑問には斎藤自身が答えた。

「まず、そこから訂正を。 ……俺は元々、伊東派ではない」
「斎藤君はな、トシの命を受けて間者として伊東派に混じっていたんだよ」

 近藤の言葉を受けて、ようやく一同の頭に事情が染みた。
 敵を騙すにはまず味方からとはよく言ったものだが、人が悪い、胆が冷えたと胸をなで下ろす者もいる。
 お互いの約定を破ったとなれば、伊東派がまたも面倒な難くせをつけてくることは目に見えているから。
 一安心したのもつかの間、斎藤がもたらした伊東派の動きは、新選組に対して明らかな敵対行動をしているという穏やかでないものだった。

「あんたの弟が伊東の元に頻繁に出入りしては、薩摩だけでなく長州との話も取り持つようにしている。 さらに、あんたの性別を伊東にわざとばらして新選組を動揺させる材料の一つにしろといったのもそうだ」
「…………」
「それだけじゃあない。 坂本暗殺の噂が広がるのが早すぎると思っていたら、 といったか、あんたの弟……御陵衛士の連中に策としてあらかじめ人を雇ってあちこちに話が広まるように各所に準備しておけと提案している。 諸藩の間だけではない、市中にも噂を吹く者を配置して、新選組の悪評が広範囲に広まるように仕掛けていたというから手の込んだ事だ」

 これはもう、イタズラ小僧のやらかす範囲の事ではない。
 あれにはあれの考えあっての事だろうと思っていた だったが、思わず感じた目眩にガラにもなく後ろにブッ倒れそうになった。

「綱道さんだけじゃなくって藩の上役に繋がる人脈もあるのか。 しかも、鬼とも何かしら関わりがあるようだしね。 弟クン、もしかして意外と重要人物なのかもよ?」

 追い討ちをかける沖田の言葉を受けて、 がちらりと土方のほうに視線をやれば、しっかりと額に青筋が浮かんでいる。
 すでに尻を叩くで済ませる気がないのは明らかだ。
 これは前に沖田が言ったように、本気で三枚卸しにされるかもしれないなと思いつつ、 は土方の次の言葉を待った。

「……伊東の野郎が新選組潰しと幕府失墜のために手段を選ばない事はよーくわかっただろう。 それに羅刹隊の存在も公表しようとしてやがんだ。 ……そのために薩摩と手を組んだって話もあるな」

 人道的とはいえない羅刹の存在が明るみに出て、幕府お抱えの新選組が関わっていたなんて知れたら。
 新選組は間違い無く罪に問われ、幕府にも大打撃が行くだろう。
 それが想像できたのか、一同の表情は硬い。

「そして、より差し迫った問題がもう一つ。 伊東派は新選組局長暗殺計画を練っている」

 そこまでやるか、との疑問が の頭に浮かんだが、どうやら本気らしい。
 一同の驚愕の中沈黙を守る近藤は、取りあえず土方の話を聞いてくれというかのように、彼に視線を向けた。











◇◇◇◇◇












 市中、南雲薫の仮宅。
 ここは、藩邸にいないときの鬼たちの集合場所のようになっている。
 そこに が血相変えて駆け込んできた。

「すいません勝手に上がりますっ! 天霧さんこっちにいますかっ!?」

 どたばたと廊下を走るものだから、気付いて出てきた不知火が声をかける間もない。

「何だってんだあいつ……」

 よほどの事がないかぎりノホホンとした態度を崩さないあいつがああも慌てるなんて珍しい、しかも天霧に用事かと、不知火は妙な事もあるもんだと首を傾げた。
 裏庭にいた天霧は、つんのめりかねない勢いでやってきた を見て天霧は何ごとかと目を丸くした。

「どうしたのです、 君」

 手慰みに生け垣の手入れをしていた天霧は植木鋏を手から外して、 に向き直る。
 全力で駆けてきたのか、はぁはぁと肩で息をする の様子に、

「薩摩か長州の藩邸にどこぞの勢力が襲撃でもかけてきましたか……?」
「違うんです。 天霧さんがくれたあの血……」

 そこまで言って、パッと口を押さえて周囲に人がいないかどうかきょろきょろと確かめる。

「大丈夫ですよ、気配はありません」
「なら、大丈夫ですね……大変な事が分かったんです。 結論から言えば、『変若水は『鬼』すら羅刹に変える』猛毒です」
「何ですって?」

 現時点で、鬼が羅刹よりも格上の存在である以上、そんなことはあり得ない。 あり得ないからこそ、綱道も羅刹を鬼以上の存在にしようと躍起になって研究開発を続けている。
 そう、思っていた。

「まさか俺も、変若水が『鬼』の血すら侵食するとは思っていませんでした。 あれは、もしかしたらありとあらゆる生命を蝕むものじゃないかって」
「生命を、蝕む?」
「ええ。 あり得ないとは思いますが絶対に飲んだりしないで下さいよ!」

 それだけははあり得ない、そう天霧は断言した。

「詳しく聞かせて下さい。 変若水が鬼の血、あらゆる命すら蝕むとは、一体どういう影響が出るのか」

  は頷き、数日前に起こった偶然から導き出した恐るべき結果を語りだした。

「俺が、変若水の毒性の強弱を調べるために植物を使っていた事は知っていますよね。 寒くなるにつれて使える花や顕著な反応を示してくれそうな植物も少なくなるから、こうした生け垣に使うような冬でも緑を保つ植物の葉や枝をすり潰して実験に使っていたんです」

 これも、花や苗に水分として吸わせるよりも反応が早く出る方法だと分かり、重宝していた。
 緑の葉を擂り鉢ですり潰したものに、各地の水で希釈した変若水を落とす。
 同じように、各地の水で希釈した鬼の血を落とす。
 変若水は切り花で試した時のように一時活性化し、すり潰したにも関わらず元の緑の枝葉の形に戻ろうとしたが、それも一時だけの事で、時間を置くと白い灰のように変化してしまう。
 それも、鋏で切り刻むよりすり潰したほうが反応も顕著だが灰になる時間も早かった。
 鬼の血を変若水と同じ条件の希釈で薄めて、すりつぶした植物に落としてみても変化は見られなかった。 なのでこれは鬼の血に変若水のような効果は期待できないという事でもあった。

「天霧さんからもらった血が、いつまでたっても腐らないってのには驚きましたけれど。 試しに俺の血も同量取って同条件で保存してみる事もやったんですけれど、俺の血のほうはあっさり駄目になりましたからね」

 そのことからも、鬼の血には確かに人の血や変若水にはない何らかの生命力のようなものを感じるのだが、それは今回の話とは別だ。

「そういった条件で実験をしていたんですが、すり潰した植物に変若水を加えたものの中に、うっかり間違えて鬼の血を……天霧さんの血を薄めたものを入れてしまったんです」
「ほう?」
「あ、まずい! と思った時には反応が出てました。 変若水を与えた植物は再生こそしますがやがて灰になりますが、血を与えると一時活性化して灰になるまでの時間を伸ばせます。 それについては俺の血でも試したんですけれど、天霧さんの血でも俺の血と同じように……変若水に食われてしまったんです。そしてそのまま灰になりました」

 変若水に食われる、とはまた穏やかな表現ではないと天霧は顔を顰めた。

「鬼の血に、変若水の毒をどうこうする事ができるなら、人の血とは違った反応が出てしかるべきです。 それを踏まえて、別の実験も試してみました」

 掌ほどに切った半紙に、植物を擦りつぶしたものからとった汁を薄めて染み込ませ、片方の端に天霧の血をそのまま塗り、もう片方に変若水の原液を塗る。
 するとどうだろう、濃い変若水は紙に染み込んだ草汁からでも何とか原形を取り戻そうとして反応し、紙の色を変えていった。
 そのまま天霧の血がぬってある方にまで変色は広がり、天霧の血を飲み込むようにして変色しつくすとやがて効能を失い、紙はぼろぼろに崩れ落ちた。
 もちろん、まさかと思い自分の血でも試し、台所で鼠を捕まえてその血でも試してみたが、同じ結果が出た。
 変若水は植物も、人も、動物も鬼の血すらも蝕んで灰にする。 一時、驚異的な力を与える代わりに。
 性質があえば、植物ですら吸血植物にするような洒落にならない効果付きで、だ。

「この事、もちろん綱道さんには言ってません。 何か間違いがあってからじゃ遅いから、とにかく急いでこっちに知らせに来ました」
「そうですか、よく知らせてくれました」
「天霧さん、前に鬼は、人間と交わる事ができるけれど、そうして生まれて人との間に代を重ねた子は鬼としての力は徐々に弱まるっていいましたよね。 中には鬼としての力を自ら発現する事もできない、そういった子もいるって」
「ええ、それで今我々は種の保存の危機に面しているわけですから」
「鬼の間に、変若水が広がったらそれこそ大変な事になると思います。 薄めた植物の汁でさえ反応を示すなら、薄まった血に反応しない道理がどこにあるでしょう。 鬼としての力を目覚めさせるための切っ掛けとして使われたりしたら」

 その可能性は、天霧にも想像できなかった事らしい。
 それは確かに冗談ではすまない、と天霧は唸る。

「日光に弱く、血をすする衝動を完全に消す事ができれば、血の薄まった鬼の一族を救う特効薬になるかもしれません。 そればかりでなく、本来神々が持つとされる本当の意味での『変若水』になるかもしれません。 けど、現状それを実現するのは不可能です」

 たとえ消す事ができても、そのかわりに副作用がついてまわわるのが常、綱道の言うように利点ばかりでは決してない事を考えると、手酷いしっぺ返しがついてくるものにしかならない気がすると、 は頭を左右に振った。

「鬼の血が濃いっていう天霧さんの血でさえそういう事が起こり得るなら……」
「なるほど、君の危惧していることはわかりました。 しかしこうなると、風間様や不知火、それに南雲君にも黙っているわけにはいかなくなってきましたね」

 幸い、今夜全員がここに集まる事だしその時に話そうと言う事になった。
 
「仕方ありませんね。 ……え? 南雲……って薫さん? 彼女も鬼だったんですか?」

 不知火は、黙っていて悪かったと前おいて頷いた。
 ついでに付け加えるなら、彼女ではなく『彼』だとも。

「ええっ!? 男ぉ!?」
「訳あって女性の形をしていたのですが、人それぞれですし訳については言わずにおきましょう」
「すげえ美人さん、て思っちゃった俺の立場って……」

 俺の目、変なところで節穴かとがっくり肩を落とす の肩を、気を落とすなと天霧はポンと叩いた。




 前へ / 薄桜鬼・トップに戻る / 次へ