◇◇◇◇◇
その夜、夜半も過ぎて丑三つ時に差し掛かろうかという頃。
千鶴の部屋で大変な騒ぎが起こった。
例の羅刹隊に組み込まれた隊士の一人がついに正気を失いふらふらと屯所の表に出てしまい、千鶴の部屋に入り込んでしまったというのだ。
千鶴は羅刹に斬り付けられて怪我をしたが、土方を始めとする幹部数人が駆け付け、大事に至る前に事はおさまったかに見えた。
「……こっちにも何かあるんじゃないかって思ったけれど、何もなかったみたいだね」
「何ですか、そのちょっと残念そうな反応は」
廊下で呑気そうに笑う沖田に、
は部屋の中の屏風の陰から頭だけ出して険悪な視線を向けた。
寝巻きがわりの襦袢一枚の格好だったので、晒しだけ急ぎ胸元に巻き付けて襟を整え、剣帯を腰につけて両刀をぶち込む。
急ぎ部屋を出ようとする
に沖田はどこへ行くのかと声をかけた。
「今から表に駆け付けても遅いよ?」
「そっちじゃあない、裏だ。 頭のおかしくなった羅刹がひとりだけとは限らないだろう?」
他にいないにこしたことはないが、もし表に出られてこれ以上の騒ぎになったら目もあてられないと吐き捨てる
に、沖田は少し目を見開く。
出会った時から、並の度胸の据わり具合ではないと思っていたが近頃とみに凄くなっている。
最初彼女が『しろがね頭』と呼んだ羅刹たちだが、普通ならあの狂った視線に睨まれたりしたら身がすくみ上がって足など動かないだろうに、微塵も恐れないどころか再びその前に身を晒す事さえ躊躇わない。
大股で廊下を歩いていってしまう
の後を、沖田も同じく大股で追い掛けた。
「待ってよ、僕もお供するよ」
「……どさくさにまぎれてこっちを斬る気じゃないでしょうね」
「信用ないなぁ」
足手纏いになるくらいなら、邪魔にならないように斬っちゃうけど優先順位くらいわかってるよと、嫌味にもまったく悪びれない沖田に視線を向ける事もなく、
は羅刹たちの寝所となっている一画へと足を向けた。
表の隊士たちが起居する場からは離れたひっそりとした一画、その裏側には小さな裏庭がある。
昼間でも陽があまり当たらない陰がちな場所なのだが、夜になると降り注ぐ月光がまるで墨絵のように濃淡をくっきりと浮かび上がらせる。
塀を隔てて通りに面した此処は山南曰く、『羅刹的に絶好の憩いの場』なのだそうだ。
しっとりとした土や苔の漂わせる日陰の匂いと、月明かりに映える景色が何ともいえない、そうだ。
羅刹の中に庭作りが趣味の隊士でもいるのだろうか、大きな陶器の水盆まで持ち込まれており、どこからか折ってきたらしい小振りな桜の枝の切り口が浸してある。
「……よかった、何ごともないみたい」
ほ、と胸をなで下ろす
。
寝所の中は静かだ。
羅刹隊は主に夜間の巡察に出るから、数人の非番隊士を除いて今の時間は出払っていてもおかしくない。
今夜も数人残っていたようだが、がらんとした寝所の中には、端に積み上がれられた布団と途中のまま放置された将棋板がある。
非番の者同士、将棋でもさして楽しんでいたのだろうか。
「あれ、戻ってないな……どこに行ったんだろ」
一人の羅刹隊士が、ぼりぼりと頭をかきながら廊下を歩いてこちらにやってきた。
庭と寝所の間の廊下に佇む沖田と
を見てぎょっとし、歩みを止めるがその反応に沖田は気を悪くした様子もなく『今晩輪』とにこやかに挨拶した。
少なからず何かヘマをやらかして切腹かそれとも『薬』を飲むか……を迫られた羅刹たちにとって、局長の親衛隊ともいえる一番隊を預かる沖田の存在はある意味恐怖だ。
羅刹といえども余裕で斬れる腕の持ち主だけに、彼がここに来ているということは何か二度も殺されなければならないような失態を犯したのかと、思わず痛くもない腹を探らなければならないほど、その羅刹隊士隊士はうろたえた。
「ごめんごめん。 おどかすつもりはなかったんだけどさ。 ねえ、今夜『こっち』で非番なのって誰?」
「……え? 俺と、もうひとり……あと山南さんですが」
「へえ、山南さんもだったの。 もう一人はどこにいったのかな」
それが、と羅刹隊士は後ろを振りかえる。
「俺と将棋をさしていたんですが、ちょっと気分が悪いから厠に行ってくるとか言ったまま戻らないんで、心配になって見てきたとこなんです。 けど、厠にはいないし、こっちに戻ってきて入れ違いになったのかと思ったんですが」
戻ってないんですよね……と首をかしげる。
「気分が悪い? どんなふうに?」
「何やら喉やら腹やらがむずむずするといった風に押さえてましたが。 起きた時に食った飯の豆腐がちょっと古かった気がするなんて言ってましたから、あいつ中ったのかも」
同じもの食った俺はこの通りピンピンしてるから腹が弱ってたのかもしれません、と羅刹隊士は顎を撫でた。
そう、超人的な力を持つ羅刹といえども、飯も食えば眠りもするし、厠にも行けば体調だって崩す。
多少の特異体質の他は人間と何ら変わらない。
なので食いものに中った所で不思議はないのだが、沖田は話を聞いて『ふぅん』と目を細めた。
……たぶん、その厠にいったまま戻らないというのが表で騒ぎを起こした隊士だ。
「そう、大変だね。 山南さんも非番ならちょっと話がしたいんだけれど、どこかな」
「それが、山南さんの姿も見えないんですよ。 今までどこかに行くときは必ず誰かに声をかけていたんですけど」
「何か急の用事でもあったのかもよ。 じゃあ、少し待たせてくれるかなあ、何ならもう一人が戻るまで僕が将棋の相手するよ」
山南さんほどじゃないけれどけっこう強いよと笑う沖田。 恐縮する羅刹隊士の背中をまぁまぁと押して部屋に入らせ、もう一度廊下に出ると
に小さく声をかけた。
「こっちは暫く僕が見てるからさ。 君、一旦戻って袴つけてきなよ」
「ああ、そうですね」
「僕は目に楽しいんだけれど、大立ち回りで裾が割れたりしたら見えちゃうしね」
ズケズケと何を言うんだこの人は、と思ったが、沖田の言うとおり緊急でないのなら身支度を整えてきたほうが良い。
何せ、幹部の他には性別を隠して屯所に居させてもらっている身だ。
女と分かったら何かと面倒な事になる。
一旦部屋に戻り、いつもの着物と袴を身につけて、どうせ表に戻ったのだからと台所に寄り道をし、スルメと酒を裏への差し入れ用に頂戴してから裏へまた足を向ける。
表の騒ぎは他の幹部たちがどうにかするだろから、今夜は沖田と二人で自主的に裏を見張っていればこれ以上何も起こらないだろう、とこの時はタカをくくっていた。
油断して足音も殺さないまま、ほてほてと呑気に廊下を歩き、羅刹隊の寝所の近く、庭が見える所まで来た時、月光が差し込む庭に誰かいるのに気がついた。
「……ッ! 駄目だ、こっちに来るな!!」
沖田の鋭い叫びと、直後に漂ってきたむわりとした生臭い匂い。
流したばかりの血と臓物の混ざった匂いに、ただ事ではないと知り、片手に持っていた酒瓶を放りだし廊下から飛び下りて駆け出す。
「……来るなって言ったのに、何故来るのさ」
沖田の舌打ちなど耳に入っていなかった。 彼の足下に転がる、先程まで普通に会話していた羅刹隊士の無惨な姿も。
の目にうつったのは、沖田の肩ごしに月光に照らされた自分と良く似た顔。
「姉ちゃん」
最後に聞いた時よりも、音が下がって男らしくなった声に、身体が震える。
「久しぶり!」
目の前でにこっと笑う顔に向かい、沖田は心底忌々しいと言う様子で二度目の舌打ちをすると抜いた刃の切っ先を向けた。
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