羅刹女 ---12---
将軍警護の夜が明け、出陣していた者たちは半日非番を取り徹夜で働いた体を休めた。
土方も数時間の仮眠を取ったあと、今回の事の顛末をまとめる書類を書き、ひとやすみしようと
を呼んで茶をいれさせた。
茶を持って来た
をそのまま休憩に付き合わせ、昨夜の鬼の話をしている。
「……鬼っつーと、アレだよなぁ。 金棒もって虎皮のふんどし締めて、髪の毛ゴワゴワで天突いてて、キバがガーっと口から伸びてて生肉を食って酒をかっくらう、っていう」
ガキの時分に、だれしも一度は悪さをすると鬼に食われてしまうよとか言われて脅された経験があるのではないだろうかと、湯のみ片手に土方は言う。
何だか、だれかに聞くたび例えが酷くなってる気がするが、決して気のせいではない。
は乾いた笑いを零し、自分も一口茶を飲んだ。
朝方、屯所帰還と同時に隊士たちを集めて昨夜の騒ぎの件に対する説明がなされ、風間、天霧、不知火を名乗る3人が薩摩・長州に組するもので、新選組屯所にも襲撃をかけてくる可能性があるので皆重々気をつけるようにと通達された。
幹部たちは襲撃された当事者である千鶴に、狙われる覚えはないのかと尋ねたが、千鶴にはまったく身に覚えがない。
千鶴が知らない場所で何か事情が動いたか、彼女自身に知らされていなかった何かが原因なのかは今の所はっきりしない。
「風間とか言う野郎、おかしなことをほざきやがったな。 千鶴は新選組にゃあ過ぎた宝で、相応しい者に利用されてこそ真の価値がある、だとよ」
「何て酷い言い種だ」
茶菓子に伸ばそうとしていた手を止めて、
は呆れ返った調子で呟いた。
「持参金目当てで嫁取りするような所だって、もう少し柔らかい事を言うんじゃないか」
千鶴を物のように扱う気が満々の言い分にも腹が立つが、怯える少女に無遠慮に手を伸ばしてきたあの風間の態度を思いだすと重ねて腹が立つ。
が、嫁取りという言葉に土方が反応した。
「もしかして、それかもな」
「は?」
「風間って野郎が、千鶴を嫁にしようとしてるんじゃないかって事だ」
「ンな馬鹿な」
は今度こそ笑って茶菓子に手を伸ばした。 薄焼きのせんべいを前歯でパリンと噛み砕いて、
「そりゃあ昔は村の若い男が他の村の娘に惚れて、立場上どうにもならないから攫ってきて嫁にしてしまおうっていう事もあったっていうけど。 そんなことしたら、昔も今も村や身内の男が黙っていないだろうに」
「まぁな。 俺だって身内の女がそんな目にあったら未遂に終ろうと野郎の所に殴り込むぜ。 けどよ、身内の男が『さらってしまっても良いぞ』って許可を出した場合はどうなる?」
もう一度、そんな馬鹿な話があるかと笑い飛ばそうとして
は手を止めた。
女は、ほとんどの場合結婚相手を自分では決められない。 社会の上層の立場になればなおさらで、幼い頃に親の決めた結婚相手がいるなんていうことも珍しくないし、まだ子も産めない身体の少女が四十すぎた男の所へ嫁に行かされる事だってある。
結婚は、父親が決める。 本人どうしの合意は関係なく、結婚しあう相手の父親どうしが合意すればそれで良い。
そうして息子や娘に、「これこれこういう相手に決めたから結婚しなさい」と命じればいい。
家の格なといろいろややこしい事も絡んでくるが、基本、父親が決め、そうでない場合は親戚筋の長老か一族を束ねる立場のような者が決める。
「千鶴は綱道さんの他に身内は無いそうだから、許可を出すとしたらその綱道さんになるんだが。 そうとでも考えないと、池田屋じゃああいつの事を歯牙にもかけなかった連中が急に目の色変える理由がわからねぇんだよ」
「……それがあたってた場合、綱道さんは……千鶴ちゃんのお父さんは薩摩や長州の元にいることになりますね。 そして、薩摩の中でもそれなりの立場にあると予測される風間を動かせるような立場に彼もまたいることになる、と……」
「そういうこった。 外れててくれりゃいいんだがな、こんな予想。 それにお前だって人事じゃないだろう」
「そうですか? あいにく、私には嫁に行けなんて言える身内はいませんよ」
そうでもない、と土方は首を横に振った。
「いるだろうが、弟が。 そいつが元服前ならともかく、元服をすませれば立派な家長だ。 姉の許可は必要なしに、まわりが元服に充分だって納得すればいいんだから、年頃からしてあっちで元服をすませている可能性だってある」
そうすれば、お前の夫になる相手を決める事ができると土方に言われて、
は頭を抱えた。
なるほど、確かにその通りだ。
ナリはこんなだが、身体は女で子を産むにも問題ないとなれば、結婚を決めるには何の障害もない。
血筋がそれなりで、健康で頑丈で、立派な子供を産めそうなら器量など二の次、三の次という男も結構いるのだ。
自分が綿帽子の花嫁衣装など纏っている姿を想像したこともない
は、その恐ろしい有り様を想像してがっくりと肩を落とした。
「まぁお前も変なのに目をつけられたらしいからな、気をつけとけ」
話はそこで終ったが、まさか自分がそういう対象になる可能性があると今の今まで思わなかった
は、自分の想像を遥かに超える衝撃で目眩を起こした頭のまま、蹌踉と自分の部屋へ戻っていった。
それから暫くして、近藤が江戸出張のときに知り合ったという松本良順という医師が、隊士たちの健康診断という名目で屯所を訪れた。
幕府の御典医でもあるという彼は、医者にありがちな天狗鼻や近寄りがたい雰囲気がなく、見るからにチャキチャキの江戸っ子で、人好きのする笑顔の似合う好漢だった。
本人たちはそう思っていないが、人をそうそう信用しないタチの土方や沖田までもが、松本の人柄には骨抜きにされて自ら交流を求めたほどだ。
健康診断の日はそれは大変な騒ぎだったが、まさか他の隊士たちに肌を晒すわけにいかない
は、早々に屯所を逃げ出していた。
適当に時間を潰して戻って来てみれば、屯所は上を下への勢いで大掃除を行っているし、桶屋が来て大形の風呂桶を据え付けている。
師走のすす払いでもないのに何だこれはとあっけに取られていれば、ボケっと立ってる時間があるなら手伝えと、通りがかった斎藤に連れていかれた。
「……というわけで、屯所中を徹底的に掃除しろというお達しだ」
が屯所を離れている間の次第を斎藤が説明してくれたが、それを聞いた
は思わず乾いた笑いを零すしかなかった。
男やもめに蛆がわく、という言葉あるが、男は不精なものなので掃除洗濯をして気づかってくれる女が側にいないとどういうことになるかという意味だ。
そもそも日々の掃除洗濯など男の仕事ではないからとやらない連中のほうがここには多い。それが隊内に病人が絶えない原因だと松本医師に散々に叱られ、改善に踏み切ったのだという。
たしかに、幹部たちの部屋はまだましな方だが平隊士たちの寝泊まりする部屋は散々たるもので、臭い、汚い、片付かないと三拍子揃って実にむさ苦しい。
「……それで、汚れとノミのついた着物をどうしてくれようかという話になったのだが」
連れていかれたのは井戸端にドンと積まれた着物の山。大きな盥十個分----どうやら隊ごとにまとめたらしい----に山盛りになっている上に、袷や単、袴に褌、汚い足袋と、汚れ物を積みまくったそれらが発する異臭に
は思わず数歩後ずさった。
「さすがにこの量だと手分けして洗っても数日かかる気がしてな。 ……これの片付けの指揮をとれと言われたがさすがに困っている」
「ふ、ふ、ふふふ……」
着物を解いて縫い目の埃まで取って仕立てなおしをして着るような事はできないが、こまめに洗ってさっぱりとした着物を着ることを心掛けている
にとっては、この惨状は信じがたいものであると同時に、近寄りたくもない代物だった。
「……鍋」
「……台所にあるもので良いのか?」
「いいえっ! 釜茹でができるような、大きいのを運び込んで下さいっ! それでガンガンお湯沸かしてこの汚れ物を煮ちゃえばノミだろうがシラミだろうが我慢のならないニオイだろうが解決ですっ!」
洗い張りだの灰汁の上澄みを使って丁寧に洗うなんぞやってられるか、こんなにするまで放っておいたほうが悪い、中に高級品の絹や縮緬や緞子があろうと知らんと息巻く
の横で、斎藤は冷静に頷くと小者に命じてすぐに大釜を借りてこさせ井戸端に据え付けると、どんどん火を焚いて湯を沸かした。
「しかし良いのか? こんな事をして」
「少なくともノミやシラミは全滅するんですから、清潔にしろっていうお達しには適うでしょう」
二人ではやっていられないのであと数人の人手を集めて、湯で汚れを浮かせたものを足踏み洗いをしつつ水をぶっかけて漱ぎをして、物干だけでは足りずにそこらじゅうに張った縄に洗濯物を干し終った頃には日もくれかけていた。
このまま明日の昼まで干しておけばパリパリに乾くだろう。
部屋の掃除のほうも、日々の掃除などほとんどしたことのないような連中が多くて予想外に苦戦していたようだったが、翌朝には見違えるほどにサッパリと片付いた。
今まで健康な者も傷病者も同じ部屋に寝かせていたのだが、傷病者だけを寝かせる専用の病室も出来て療養に専念できるようになり、その上身綺麗にするようにと風呂場まで新しく作られた。
男が4〜5人、まとめて入れるような大きな風呂桶が3つも据え付けられ、簀の子を置いて洗い場まで整えられた風呂場を見た時、
は『こんな大きな据え風呂なんて大名のような贅沢だ』としみじみ呟いた。
さらには掃除や食事のたびに出る残飯の処理も徹底するようにと通達が出され、改めて様子を見に来た松本医師がその徹底ぶりに感心するほどだった。
松本医師は新選組の事がいたく気に入ったらしく、その後も何かと面倒を見てくれる事となった。
医師としての立場からも、また強力な資金源としての立場からも力になってくれるという松本に感謝し、新選組、特に幹部たちはささやかながら宴席を用意して彼をもてなそういう事になった。
あまりのどんちゃん騒ぎは返って疲れるだろうし気を使わせる事になるだろうから、少人数でゆっくり語り合いながら親睦を深められるような席がよかろうということになり、夏の川風がいっぱいに入るこぢんまりとした料理屋の2階を借りることに話を纏めた。
「羅刹、ですか……」
お前も見てしまい、関わってしまった以上、この際あれがどういうものなのか知っておいたほうが良いだろう。
そう判断した近藤と土方の口から、例の『薬』によって生み出されたものが何であるか、その『薬』に関して千鶴の父・鋼道がどう関わっているのかを聞かされた
は、深く頷いた。
人間を、驚異的な力と治癒力を持つ存在に変化させる秘薬、鋼道は、実験場を兼ねた新選組でその研究を行っていたのだが、薬の開発については人道的に問題もあること、そして良心の呵責に耐えかねて新選組を抜け出しただろうことも……。
「……この事、千鶴ちゃんには」
「うむ、ここまでは話してある」
局長室の上座に座った近藤が重く頷く。
ここまでは……ということは、まだ話していない部分があるってことかと、
は伏せていた顔を上げた。
近藤も、複雑な表情をしている。
「実はなあ、鋼道さんは新選組を離れたあと、過激派攘夷浪士と行動を共にしていると松本先生から教えてもらってな。しかもそこで羅刹の研究を続けているらしいとあっては……雪村君にはとてもとても告げる事ができん」
自分の父が、場所変えてまであの薬を研究し、新しい羅刹を作り出しつづけているなど……自分が近藤の立場でも、とてもではないが口にはできないと思い、
も眉間の皺を深くしてしまう。
「……それにな、君にとっても悪い知らせがある」
「え?」
そこまで言いながらも口を噤んでしまった近藤に代わり、脇に控えて居た土方が続きを告げた。
「お前の弟が、鋼道さんの元にいる」
「……!」
「助手として働きつつ、羅刹の研究にも関わっているようだ。 ……はっきりした情報まではわからねえが、先だっての手紙の不知火って野郎の話もあわせると、お前の弟も過激派連中の元にいることだけは間違いねえ」
なるべく生かして捕らえるくらいはする、だが過激派攘夷連中の元にいるとなると、立場上斬らなきゃならんことも出てくるからそれだけは承知しておけと、土方は淡々とした口調で言う。
それを聞きながら、
は震えるほど拳を握りしめていた。
「あの、馬鹿」
絞り出すような声音に、近藤と土方のほうがたじろいだくらいだった。
「……で、どうして愚弟が千鶴ちゃんの父上の助手してるってわかったんです?」
近藤が言う所によると、松本もまた友人である鋼道の行方を探して独自に動いていたらしい。 どうにか居場所を突き止めて、危険を顧みず実際に会いに行って話を聞いて見た所、その時に助手として付き従っていたのが
によく似た顔の少年だったという。
その時はあまり気にとめてもいなかったのだが、先日の料理屋での宴会で
の顔を見た時、ギョッとなったらしい。
男女の違いはあれ似ている。
しかも
が行方不明の弟を探しているという話を聞き、あれが血縁でないはずがないという結論に達した。
しかも、長州藩に属する不知火という男からも、『似ている』との言を得ているとなればより確実になってくる。
は自分の顔を触り苦笑する。
あまり似ているのも困りものだと昔は二人で笑ったものだが、たまには良い結果が出る事もあるものだ、と。
「笑っているばかりではいられませんね、新選組の羅刹の事を考えれば……どう考えたって助手の仕事も大っぴらにはできないような事をやっているんでしょうから」
羅刹になる実験台の暢達くらいはやっているかもしれないと、
は再び喉の奥で唸る。
「すみませんが、なるべく生け捕りにして下さると助かります。 もう、尻をひっぱたくくらいじゃ済ませる気がなくなってきましたよ」
震える拳をもう片方の手で押えつつにこやかに言う
を、近藤も土方もその迫力に押されたように半眼で見つめていた。
近藤も土方も身近な例を考えてしまったらしく、顔を見合せる。
この姉の仕置きとなったら、無事ではすまないだろうし大体弟っていうのは姉には弱いしどこか頭が上がらないもんだからなと、
の弟に少し同情したくなった。
「……どこの世界も姉ちゃんってのは強ぇからな」
くわばらくわばら、と呟いた土方の低い声を聞き咎めて、
が視線を向けたが、土方はサッとそれを外して話はそれだけだと切り上げた。
数刻後、このやり取りに腹を抱えて笑う事になったのは沖田だ。
局長室から戻ってきた
が珍しく気落ちしている様子なのを見かねた沖田は、話を聞くくらいならできるよと、とっておきの干菓子を持参して
の部屋を訪れた。
ここの所立続けに気が滅入る事が起こり、しかもその多くを人に話す訳にもいかなかった
は、僕なら内状も大体知っているし、誰かに話す気もないから大丈夫という沖田の言を『一応は』信頼して、局長室で聞いた事を話した。
そして局長室でのやり取りの最後のあたりで、土方がバツが悪そうにしていた原因を沖田の口から聞いた
は、ああ、なるほど……と妙に納得してしまった。
「あの人、おノブさんていう姉上がいるんだ。 しかも、『あの』土方さんが頭がさっぱり上がらないような女傑なんだけど、どういう人なのかはちょっと興味あるでしょ」
「あります」
そう言うと思ったと、沖田はニッと笑い返して故郷に居た頃の土方の事を教えてやる。
幼くして母を亡くしてたくさんいる兄弟の末っ子として育った土方にとって、すぐ上の姉おノブは姉であり母のような存在らしい。
姉が嫁いでからもその婚家に入り浸り、何かと世話になっていたという。
「近藤さんの事以外で土方さんの弱味を握ろうと思ったらね、このおノブさんと、その旦那さんの彦五郎さんを人質に取るか味方につけちゃえばこっちのもんだよ」
「恐ろしい事をサラッといいますね。 お姉さんの旦那さんにも頭が上がらないんですか?」
「うん。 彦五郎さん、すごくいい人だよ」
ひねくれものの沖田が何のてらいもなくそう言うくらいなのだから、実際良い人なんだろうと
も思ってしまう。
そして、その良い人たちが、血風吹き荒れる京都に居る弟達の事を心底心配しているだろうことも、容易に感じ取れた。
姉の心配もわかるが、その弟のほうは故郷の家族の心配をよそに恐ろしくしっかりとやっている。
自分の弟も、やっていることの人道如何はともかく、少しくらいは放っておいても大丈夫なのかもしれないと、この時ふと思った。
「親はなくとも子は育つ、姉はなくとも弟は男になる……って所ですかね」
「そ。 心配なのはわかるけどさ、心配しすぎてこっちが痩せ細っちゃ始まらないでしょ? それにさあ」
沖田は自分の刀を撫でて、笑みを深くする。
「今出ていくなんて言われたら、新選組や僕としては君を斬るしかないんだから。 そこで何を口走るか分からないのに、隊士をそうそう野放しにできるわけじゃないしね」
局中法度の二、局を脱するを許さず……は、単に字面だけの意味ではない。
複雑な政治情勢のからむ昨今、情報漏洩を防ぎ、新選組の安全を守るための決まりでもある。
も、新選組が世間に公表できないような事をしている秘密を知った者の一人として、今ここを離れれば命がないことくらい重々承知しているし、恩義もあるのだから身内が絡むとはいえ勝手に出てゆくつもりはないと言った。
「あ、でも一度君と本気で斬りあってみたいってのは冗談じゃないよ?」
そういう意味では君が敵じゃないのがもったいないとは思うけれどと……またも茶のみ話には相応しくないことをさらりと言ってのける沖田に、
はもう苦笑しか出てこない。
苦い笑みを浮かべたままの
に、沖田はさらに安心させるように言葉を重ねた。
「それにさあ……これは僕の予測なんだけれど、弟クン、そのうち絶対こっちに接触取ろうとしてくるよ、保障するって」
「やけに自信たっぷりですね」
「そりゃあそうだよ。 自分で言うのもなんだけどさ、血なまぐさい人斬りの巣に、いかに腕が立つとはいえ大事で大好きな姉さんがひとり。 周りは獣みたいな野郎ばっかり……なんて状況、僕だったら放っておかないけどな」
「……」
「君だってさ、それくらいは弟クンに想われてる自信はあるでしょ?」
だから、のんびり待ってれば果報がやってくる、これは自分も姉を持つ身のカンだから保障できる、安心しろと沖田は
に笑いかけた。
その後姑く、新選組にしては珍しく穏やかな日々が続いた。
いつも通りの隊務や禁門の変以降、朝敵として追われる事となった長州藩を中心とする浪士の捕縛のための緊急出動、さらに隊内でいくつか局中法度に触れる行いをしたために切腹を命じられたり斬首に処せられたりする者が出たが、それを差し引いても平穏な日常を過ごす事が出来た。
やがて寒さも本格的になった頃、局長・近藤と参謀・伊東を始めとする隊士数名が、長州訊問使永井主水正に随行し広島へと発った。
先の禁門の変での皇居への発砲を理由に、幕府は長州藩を叩き潰すべく出兵したが、そもそも禁門の事自体が長州藩内の倒幕過激派による暴走が原因で、事の失敗により過激派は力を失い、長州藩の政権は保守派に実権が移っていた事もあり、長州藩は闘わずして恭順していた。
だが、幕府恭順を決めた保守派は、長州藩内で倒幕論を掲げる高杉が僅か80名ほどの挙兵で藩内保守派との内戦に勝利し政権を奪取、藩論を武装恭順、いずれは倒幕とまとめあげてしまった。
恭順から一年足らずの間にまたも不穏な動きを見せはじめた長州藩に対し、再度上洛した将軍家茂は天皇に長州再征を上奏し勅許を得た。
それに先立ち、実情を確かめるために訊問使を送り込み情勢を確かめる事になり、これに対して新選組は会津藩を通じ、広島への同行を願い出た。
その願いが通り、訊問使に随行しての出張が決まった次第だ。
局長・参謀の不在の間は副長・土方が局長代理として新選組を預かる事となり、11月4日、出立を見送った。
旧暦の11月始めは、明治以降の新暦においては12月も半ば勘定になる。
寒さばかりのせいでなく顰められた土方の表情に怯えて、隊士たちのほうも動きがどこかぎこちない。
土方が鬼のように厳しい分、近藤や伊東が穏健だったために気を緩める事も出来ていたが、土方が目を光らせていると緊張するのかもしれない。
そんな隊士の様子に対して土方は、
「いいじゃねえか、というか最近弛んでんだよ。 この機会に箍をきっちり締めなおしゃいいんだ」
と、取り付くシマもない。
「大体なあ、幕府も幕府なんだよ。喧嘩のやり方がわかっちゃいねえ」
「はぁ……」
「甘っちょろい詰問なんかしねえで、今こそ好機とブッ叩いちまえばいいんだ。過激派が藩政とっちまった時点で叛意ありは明らかなんだからよ」
副長室で土方が手紙を書く側に控えながら、
は何とも言えない返事を返す。
普通女に国事政局の事など話さない、関わらせないのが当世の男というものだが、愚痴とはいえかなりの事まで話してくれるのを喜んでいいのか悪いのか、
としては複雑な心境だった。
これが沖田なら、『難しい政治の話なんてご免ですよ』とさっさと逃げ出しているのだろうが、どうも逃げだせる気配ではない。
だが実際、土方の言う通りだと思う。
禁門の変の後、幕府側の提示する降伏条件、藩主親子の蟄居、山口城の破却、責任重大である家老3人の切腹などに打ちのめされて恭順の体を見せて居た藩が、この短期間に政権・藩論をひっくり返されてしまう意味がどういうことか。
長州の大意は倒幕に向いているといっても過言ではないと
は思っている。
いかに強大な力を持っていようとも、時流に逆らえば流され消えてゆく。
本当に今後も幕府に恭順する姿勢を貫こうという気風があるならば、たかだか80人で挙兵した者たちなどあっさり返り討ちにして終わっているだろう。
だが、天は、時の流れは、そして人の意志は、高杉という男に味方した。
この意味は大きい、
はそう思う。
幕府は、新たな意志の元一枚岩になった長州に対して、のんびりと『降伏するって言ったのに何してるの? 何かやましい事でもしてるのか?』とのんびりとした詰問を投げかける……後手に回るも良い所だ。
こんなの、口の上手いのが出てきてかわされてしまえばそれで終わりではないか。
土方は筆を置き、手紙の墨が乾いた事を確かめて封をすると
に渡した。
「飛脚問屋に出しておいてくれ。 宛先は武州日野の井上家だ」
「はい」
はすぐに屯所を出て飛脚問屋の所に行ったが、その留守の間に隊士一人の切腹が行われたらしい。
戻ってくるなり、血に汚れた畳を運び出している所だったからギョッとしてしまったが、ここの所『箍を絞めなおす』とばかりに粛正が多い。
中には不義密通など弁護のしようのない者もいるが、隊士たちの話を聞いていると、最近誰それの姿が見えない、人しれず粛正されてしまったのではないか……という声が聞こえてくる。
今回は腹を切るのを選んだようだが、やはり妙な違和感を覚える。
そして違和感の理由はすぐに明らかになった。
今日は巡察隊に配置されていないので、夕方までの稽古でひと汗流す前に一杯水を飲んでおくかと裏の台所に向かってみれば、柱の所に首を切られた鶏が数羽、血抜きのために逆さ吊りになっていた。
松本医師の勧めもあって、隊内では豚と鶏を飼いはじめ、栄養補給の食材として利用しているのだが、前に他の隊士が切腹した時にも、夕餉の膳にいつもより多く鶏肉がのぼった事を考えると、何となく理由が見えてくる。
……新選組でも、例の薬の製造と改良、実験は続けられているということだ。
以前、隊規違反者に、『腹を切るか、死ぬかもしれないが運がよければ強くなれる薬を飲むか』を選ばせていると聞いてはいたが、他の隊士の手前『切腹』させないと格好つかない場合がある。
通常、武士の切腹には儀式としてそれなりの場が整えられて粛然と行われるものだが、新選組の切腹は略式も良い所で、見届け人、切腹人、介錯人だけで一室をに籠り閉め切って行われている。
もちろん、切腹人が恐れをなして逃げ出したりしないように部屋の周囲に監視も付けられるが、逃げようとして逃げおおせた者は今まで一人もいない。
本当に切腹したのなら、そのまま死体を運び出し埋めれば良い。
薬を飲んで羅刹となった場合には、一時的に暴れる事もあるだろうがその辺はいつぞやの山南の時のように強制的に黙らせ、いかにも切腹が行われましたというふうに鶏の血でも畳や障子に飛び散らせておけばいい。
切腹人はどうするのかといえば、戸板に載せて筵でもかけて、羅刹隊の宿所のほうへ運びこんでしまえば大分誤魔化しも効く。
壬生浪士組としてまだ人数が少なかった頃や、新選組となっても幹部と平隊士が別々の建物に起居していた壬生村の頃ならこんな事をしなくてもごまかしは効いたのだろうが、今は人数が増えた分、どうしてもそれらしく見せておくことは必要だと言う事だろうか。
「……やれやれ、どうしてこうカンがいいかね」
逆さ釣りの鶏と、その下で血を受け止める桶を複雑な面持ちでみつめていた
の背後、台所の板の間の方から土方の声がした。
切腹が行われたのはつい先程だったのか、見届人の礼装として裃をまとった土方の着物のそこかしこに、ポツポツと赤い点が散っていた。
「何の事でしょう? 今日の夕餉は鶏肉かと楽しみにしてた所ですよ」
が汁ですかね、それとも焼き物……と言いかけたのを阻むように、土方の鋭い目がなお鋭く細められた。
誤魔化している事など、羅刹の事情を知る身であり、今の鶏たちと明らかに量の足りない血受けの桶の中身を見比べていた表情を見れば一目瞭然というやつだ。
弟の事で衝撃を受けているだろう
をそれなりに気づかう気持ちもあって、悟らせないためにも飛脚問屋に出したようなものだが、戻りがいかにも早すぎた。
「嘘が下手たぁ、可愛い所もあるじゃねぇか」
「……」
からかうような口調だが、目はまったく笑っていない。 だが
はシラを切り通した。
「話が繋がらないんですが」
「……ふん。 まぁいい、そういう事にしといてやらあ」
土方は土間に降りると、
の横に来て水桶に手を突っこみ柄杓から直接ゴクゴクと水を飲んだ。
「けど一言だけ言っとくぞ。 思う所もあるだろうが、俺たちにお前を斬らせるような真似はするんじゃねえ」
ほれ、と柄杓を
の手に押し付け、土方は振り返る事なく台所を出ていった。