波の下にも
散々たる負け戦だった鳥羽伏見の戦いのあと、新選組は大坂から幕府の軍艦に乗り回路を江戸へと向かっていた。
鉄砲・大砲に散々打ち負かされて刀剣の時代の終りを肌で感じた者たちの顔は憔悴しきり、そこへ将軍が早々に大阪城を捨てて江戸へと逃げてしまった事と薩長軍に官軍の証したる錦の御旗がかかげられてしまったことがさらなる追い討ちをかけていた。
船内は傷病人で溢れ、それ以上に気力をごっそり奪われてけが人より先に三途の川を渡ってしまいそうな輩がゴロゴロしている。
無気力も絶望も人を簡単に殺せる事を、
はここ数年で身をもって思い知っていた。
そして、そういったものを前にしてもなおそこから手を伸ばして足掻こうとする、人間の意志の強さも。
一月の風は冷たい。洋上となればなおさらだ。
それでも、異様な生臭さと死臭の混ざった船室にいるよりはと、
は甲板に出てきていた。
新鮮な空気を胸一杯に吸い込んで、ほっと一息をつく。
このまま風に洗われていれば、先の戦場から染み付いた匂いも落ちるのだろうが、その前に凍死しそうだ。頃合を見て風がしのげる場所に入ったほうが良いと思った
は、人の気配がない所がないか探して船尾のほうへと向っていった。
そうしてかすかに洋灯(ランプ)の灯りがともる船尾近くへ歩いていくと、手すりにもたれかかるようにしている人がいるのに気がついた。
船内は怪我人も多いが、酷い船酔いで転がっている者も多かったりする。
もともと陸軍の新選組は水上の揺れに不馴れな者が多い上に、ここ数日の疲れがそれに追い討ちをかけていた。
も何人かが揺れのせいで込み上げる吐き気に耐えかねて甲板の手すりから海へ乗り出しているのを見かけたので、またそういう人がいるのだろう、酷いようなら軽く看病して船内に戻るのを手伝うかと、ゆっくりと近付いていった。
そうしたら、その人は意外な人物だった。
「山南さん?」
魂が抜けたような脱力加減で、山南が前のめりに手すりにすがっているではないか。
山南も
に気付き、顔を上げて酷く疲れた笑顔を返してきた。
「これは、おはずかしい所を……」
胸を摩っている様子から、船酔いをしたのだと悟り
は山南の背に近寄ると手を伸ばして摩ってやった。
「羅刹でも、船酔いするんですね」
「そのようでして……根っこのあたりは変わってないということでしょうか」
まだ目の前が揺れてともすると海に落ちそうだと、山南はまたも込み上げる吐き気を押さえるために何度も深呼吸を繰り返した。
「君は大丈夫なんですか……?」
「いえ、しっかり船酔いしてますよ。 さすがに食事をする気になれません」
大阪城で軽く腹ごしらえをして以来まともな食物を口にいれていないが、ここで何か食べようものならどんな目にあうか。
もちろん、船の船員たちが粥や握り飯などを用意してはくれたのだが、それに手をつけることが出来たのはごく少数だ。
「ああ、それでも新鮮か空気を吸ったらいくらか楽になりました……船室にいると、船酔いがよけいに酷くなりそうで」
「やはり、酷いものですか……」
「見た事はありませんが、地獄だってもうすこし穏やかな眺めな気がします」
山南は一般の者たちの前には姿を見せる訳にはいかない立場だが、それでも
の言いたい事は理解できた。
敵味方の死体が酷い有り様で転がる鳥羽伏見の戦場も凄惨なものだったが、
はその中でも男以上に背筋を伸ばしていた。その彼女が船酔いを差し引いてもこうも消耗するほど、酷い有り様なのだろう。
「江戸につくまでに、何人がこの波の下に葬られる事になるのか……」
そう言って、ランプの淡い灯りに僅かにゆらめいて見える夜の海を、
はジッと見つめた。
すいこまれそうな闇がすぐ近くに形をしてあるのは一種異様な眺めで、そこに手を伸ばし、身をひたしてみたい誘惑にかられる。
あの波の下に行けば、これ以上酷いものを目にしなくても良いのだろうかと、恐ろしい考えを抱いてしまう。
けれどそれはあまりにも魅力的な誘惑で、今にも足が甲板を離れそうだ。
の横顔を見つめていた山南が少しだけ眉を寄せて、そっと声をかける。
「あまり、夜の海を覗き込まないほうが良いですよ。 海軍の人が話しているのを耳にはさんだのですが、引き込まれて戻ってこれなくなるそうです」
「……」
「それよりも……吐き気が治まったなら、側にいなくて良いのですか?」
迷いを見抜かれたと、
は一瞬表情を固くした。
「この酷い状況の中、あの怪我で江戸までもつとは考えられませんよ?」
「……向き合って、いられないんです。 さすがに」
手すりに手をかけたまま、
は目を伏せてぽつりと漏らした。
「……もしかして、彼が亡くなったら身を投げるつもりでいましたか。 ……波の下にあるという都でともに在るために」
「何もかも、お見通しですか……」
「はは。羅刹とはそういう性というか、嗅ぎ付けてしまうといいますか」
悪気のない山南の笑みに、
も海面から目を離し自嘲的な笑みを返した。
「……情けない事です。 京で、伏見で、あれだけ斬って斬って殺してまくって殺されかかったというのに、たったひとりの死を正面から見られない」
「……彼は、側に居てほしいと願っていると思いますよ?」
「側についていて、後を追ってくるななんて言われたらそれこそ立ち直れません」
「ひねくれものが二人というのも、難儀な事ですねぇ」
何を言っても無駄だと思った山南は、諦めたように首を左右に振ると自分は先に戻るからあまり身体を冷やしすぎないうちに一度中に戻るようにと忠告して船室へと降りていった。
一応人目をさけて廊下を歩いていると、向こうから永倉が切羽詰まった表情で大股に歩いてくる所だった。
山南が声をかける前に、永倉はこちらの姿を認めて声をかけてきた。
「山南さん!
の奴どこいったか知らないか」
「……さぁ。 私は先程まで船尾のほうの甲板にいましたが、少なくともそちらにはいませんでしたよ」
しれっと、嘘をつく。
永倉はそれに気付かず、あいつこんな時にどこに行ったんだと表情に焦りの色を濃くした。
「……もしかして」
「ああ、山崎はもう、朝までもたないだろうよ。 まだかろうじて息はあるから最期はせめてあいつと一緒にって思って皆で探してんだけど、見つからねぇ」
「それほど切羽詰まっていましたか」
「ああ、山南さんも支障のない範囲でいいから探して、あいつ見つけたら引きずってってくれないか」
「わかりました」
永倉は別の場所を探すために足早にそこを去っていった。
鳥羽伏見の戦いで重傷を負った山崎が伏せっている部屋はこの廊下の先だ。
皆が
を探しに出ているのなら、今部屋には山崎一人なのだろう。
これはおあつらえ向きだと、山南は少し足早に山崎の部屋へと向かった。
「失礼しますよ」
ランプがほのかに照らす室内は、灯りでは追い払えない『死』の気配が濃密に満ちていた。
山南にとっては、すでに慣れた空気だ。
すっかり枕元に死神に居座られた山崎は、鉄砲傷と傷から発した熱に苦しめられながらもまだかろうじて意識を保っていた。
しかしその姿はすでに見る影もなく、肌は青白さを通り越して土気色になりかけ、熱のせいで干涸びた唇はぱりぱりと乾き、顔全体には落ち窪んだ死相が色濃く現れている。
死体一歩手前の様相なのに、肌は触れれば異様に熱い。
山南はその枕元につくと、傍らの台に添えてある水指しからちいさな器に水を少量取り、山崎の唇を湿らせ負担にならないように僅かな量を口の中に流し込んでやった。
その感触に浮遊しかけていた意識を引き戻されたのか、山崎は枕元の人に視線をあわせた。
「……さんなん、さん……?」
「ええ」
掠れて消え入りそうな声だったが、確かに聞こえた。
「もう少し、飲みますか?」
「……はい」
先程よりも少しだけ増やした量を口に入れてやると、山崎はゆっくりとそれを嚥下した。
「よかった、まだ飲み込む力はあるようですね」
「ええ……きてくれて、よかっ……た……」
あるのでしょう、変若薬が……そう乞われて、山南はたもとからガラスの小瓶を出した。
透明な瓶の中は、何度か目にしたことのある毒々しい赤の液体で満たされている。
「このまま死ぬか、それともこれを口にするか………いちおう聞くつもりではいたのですが、まさかそちらから乞われる事になるとは思いませんでしたよ」
ならば何故もっと早く、私を呼ばなかったのですかと問いかけると、山崎は渡された小瓶を手にしながら少しだけ笑った。
「さっき一人になった時に、決めたからです……」
「手伝いましょう」
「……すみ、ません……」
横臥したままでは飲みづらい。山南の手を借りて、山崎は苦労して身体を起こした。
これを飲めば、傷の痛みともおさらばできる。
だがけっして、死を恐れて、傷の痛みに怯えてこれを口にする訳ではない。
この命はまだ使い所があるからと、覚悟を決めて口にするのだと、山崎は口の中で一言祈りを呟くと、ひと息に赤い液体を喉に流し込む。
山南の目の前で、ひとりの半死人の肉体がたちまちにして変貌する。苦しげなうめきを上げたと思ったのは一時の事、胸を掻きむしるようにして前かがみに倒れこんだ山崎の髪は白銀の輝きに染まり、変貌に伴う肉体の変化についていけず荒げた呼吸が一通り落ち着いてゆっくりと上げた顔からは死相が消え失せ、瞳は血よりも禍々しい赤に輝いていた。
「……は、あ……」
「ようこそ、こちら側へ。 ……落ち着きましたか?」
「ええ、先程までの痛みも熱も何だったのかと言うくらいに」
先程まで、腕一本持ち上げるにも死力を振り絞らなければならなかったのに、今は怪我をする前のように問題なく動ける。
自分で器に水をつぎ、まだ乾きを訴える喉を潤し、ふぅっと一息ついてから、着物の前をはだけて包帯を巻かれた腹の傷を確かめた。
包帯には赤黒い血がたっぷりと染みていたが、それを解くとその下にあるはずの小さくて深い傷はすっかり無くなっていた。
「腹の中の鉄砲玉はどうなったんでしょうね」
「さあ……それは考えてませんでした。 そういえば、あるはずなんですよね」
山南も首をかしげる。山崎の負った鉄砲傷は弾丸が貫通せず、鉛玉が身体の中に残った。
外科手術で取りだせる場所ではなかったし、鉛毒がまわったせいで、貫通した時よりもはるかに苦しむ羽目になったのだが、その原因の弾がまだ腹の中にあるはずなのにこれはどうしたことだろうと、山南と二人首をひねってしまった。
「山崎君、先程君は、一人になった時にこちら側に来ることを決めたといいましたが、何がそうさせたのです?」
「……彼女が、俺が死にそうになってもここに来ないから」
「あてつけですか?」
「違いますよ」
自分が死んだら後を追い掛けてくるために、
は誰にも邪魔されない所にひとりでいるのだろうと察しがついた。
最期にあの顔を見たら、後追いなどせずにどうか生きて幸せになってくれと乞わずにいられる自信はなかった。
もそれを分かっていたから、山崎本人にも邪魔されないように、ひとりでいることを選んでどこかにいるのだろうと山崎は言った。
「ひねくれて反発しているようで、お互い誰よりも理解していた、ということですか……」
「あいつに、会ったのですか?」
「船酔いで参っていた私の所に来ましたから。 私は人気のない場所を選んでそこにいたんですが、わざわざそこへ来てじっと暗い海を見つめていたものですからね……その横顔が、随分思いつめていましたし」
彼女にも言いましたが、羅刹というものはそういう気配にやけに敏感なものなのですよと、山南は笑った。
「しかし山崎君。 こちら側に来た以上、尋常な死に方はまず出来ませんし、生きていくのも楽ではありませんよ?」
「構いませんとも。 ……この命にはまだ使い道があるんです。新選組のためにも、あいつのためにも」
山南は穏やかに微笑むと、
を呼んでくると言って枕元を立ち上がった。
「ここから先は、二人でじっくり話し合う必要があるでしょう?」
「大喧嘩になりそうな気もしますが」
「私闘に発展する前には止めてあげますから思う存分におやりなさい」
山南が部屋の扉を開けようとすると、廊下の方からなにやら騒がしい声が聞こえてきた。土方と……
だ。
どうやら、行かないと騒ぐ
を、土方が無理矢理引っぱってきているらしい。
あれでは多分引きずられているなと思いながら、山南が廊下に出て声のほうを向くと、廊下のところどころにあるパイプの一つに往生際の悪い蝉のように貼付いていた
が襟首つかまれてベリっと引き剥がされている所だった。
「つべこべ抜かすな! とっとと来ねぇと畳んで持ってくぞ!」
「だから無理です! まともに顔なんて見れ……」
の声は、殆ど悲鳴だ。
そこで土方と
は、廊下に出て来た山南に気づいてハッと動きを止めた。
酷く沈んだ表情の山南の顔を見て、
はみるみるうちに表情を固くする。それは、先程甲板で見せた表情とは別の意味での硬直だった。
このまま倒れるのではないかという
の顔色と山南の表情を見比べて、土方も何があったか察したのか表情を歪める。
そんな二人に、山南は温度のまるでない声をかけた。
「そんな表情をするくらいなら、意地を張らずに会いにくればよかったではありませんか」
まさかそんな、と大声を出そうとした土方を手で押しとどめて、山南はその目を真直ぐに見返した。
「今は、二人だけにしてあげましょう」
「……わかった。 『何があったにせよ』、俺もあんたとは話し合わなきゃなるまいよ」
理解していただけたようで、と山南はメガネの淵を指で撫でつつにっこりと微笑んだ。
「……会ってやれ」
土方は、先程までの荒っぽさとはうってかわって、
の背をそっと叩いた。
その手の感触などまるで感じず、現実を受け入れられないように呆然としている
の様子にため息をつくと、軽く抱き寄せて『大丈夫だ』と励ましてやった。
が震える手で扉の取っ手に手をかけてそろそろと開けるのを見届けて、土方と山南は背を向けて歩み去った。
同士たちに任務馬鹿と言われ、まるで土方に恋をしているようだと言われた時もまんざら外れていないなと、山崎は自身で苦笑してしまったくらいだ。
それくらい、新選組は、土方の存在は、山崎の中で大きな存在を占めていた。
この時代、この世の中でどこの武士よりも武士らしい男たちのためにこの命を使えるなら、惜しむ理由など何一つなかった。
心からそう思える。
この時代に、あの男たちとともに生きられる事を、その巡り合わせをどれほど感謝したか分からない。
……だから、鉄砲玉を食らって死が避けられない事になっても、これ以上役立てない事は残念に思いはしたが彼等のために命を使い尽くせたということはむしろ誇りであり、無慈悲な死神を前にしても毅然としていられた。
どんなに苦しくても、自分自身の運命に納得してゆけるはずだった。
……いつの間にか、心に棲んでいたあの女性の事がなければ。
京での出会いは穏やかとは言い難かったが、様々な事を経て彼女はいつしか山崎の心に棲むようになった。
女だてらに剣を取る身を、心配するようになっていた頃にはもう追い出す事など出来ないくらいにその存在は大きくなっていて、それでも新選組と彼女、どちらを取るかと問われれば迷いなく新選組を取るだろう自分が、彼女の事を一番に考えてやれないままこの想いを口にして良いものかと悶々と悩んだ事もある。
そういえば、下らない事で喧嘩をして『痴話喧嘩』とからかわれた事も多々あるなと、死の床でぼんやりと思い出していると、どうせなら最期に覚えてゆくのは彼女の笑顔が良いと思い付いた。
あの優しい記憶を抱いていけるなら、悪くない。
なのに記憶の中からその笑顔を呼び出そうとしても、なぜかそれが出来ない。
それどころか、泣き顔になってしまう。
山崎が覚えている限り、彼女が泣いた顔を見せた事はない。
それなのに、見えてしまう。
この死の床に来ない彼女が、そうしてひとり泣いているのだと天啓のように悟った時、このまま死ねるか、と死神を睨み返す力が戻ってきた。
そこへ折よく、山南が姿を見せた。
死神を睨み返す力を変若水を飲み下す力に変えて、山崎は自らの運命を選び取った。
先程まで死にかけていた人間が、何でもないような顔をして寝台に腰掛け、こちらを見ている。
ただその髪の色は銀色になり、瞳は毒々しい赤に染まっている。
何があったのか悟った
は、声にならない声でどうして、と呟いた。
どんな強敵を前にしても震えることなどなかった
の足が小さく震えているのに気付いた山崎は、無言でこちらへ来いと視線で促した。
横に座れと手で寝台を叩くと、
は蹌踉とした足取りでやってきて、恐る恐るといった様子で腰を下ろした。
「……誤解のないように言っておくが、山南さんに強制された訳でもそう話を持ちかけられていた訳でもない。 俺が、こうなることを望んだんだ」
は山崎と目をあわせることのできないまま震えていた。羅刹がどういうものであるか、その一部だけでも垣間見た身としては戦慄せずにはいられない。
ましてや、山崎が望んでそうなったとあっては、今までどおりに接する事ができるかわからない。
「俺が、死んでいたほうが良かったか?」
「そんなことは……!」
そうカマをかけると、ようやく反応してくれた。鋭く否定の言葉を発してこちらを向いた
の顔を、山崎は正面から見据えた。
「どうだ、俺は狂っているように見えるか?」
赤い瞳の中には、確かに意志と理性がある。その箍が非常に不安定なものだとしても、今は確かに
のよく知る山崎のままだ。
「……いいえ」
「そういうことだ。 ……この髪と、瞳と、少しばかりの特異体質の他は以前の俺と何も変わらん」
心配してくれるのは嬉しいが、必要以上の心配をして心を痛めたりするなと、山崎は手を伸ばして
の髪を撫でた。
ようやく肩の力が抜けて、崩れるように寝台に手をついてうつむく
の肩を抱えるように抱き寄せて、山崎は暫し無言で居た。
「普通なら、もうこの世にはいない頃だろうが……一つでも選びとれる選択肢があるならば、諦めるには早すぎる。 俺には幸運にも、この土壇場で人よりも多く選択肢が残されていたんだ」
「……ええ」
「いつか、山南さんに言ったことがあるそうじゃないか。 『己の命の使い道を決めるのは、いつだって己自身だ』と」
俺もそうして選び取ったに過ぎない。
何か大きな代償を支払ったのかもしれないが、自分はまだ生きて、ここにいる。
「……だからそう、泣くな」
はうつむいたまま、涙を零していた。 落ちた涙が敷布の上に小さな染みを作る。
どんな意味のある涙なのか、意味などなく心から溢れた感情がそのまま零れ落ちているのか、
自身にもわからない。
ただ、止めようもなく涙が溢れてくる。
山崎の指が涙を拭ってくれようとして伸ばされたが、その指も後から後から濡らしてしまう。
「昨日までの俺は死んだかもしれないが……これからの俺は、新選組に捧げる命と忠誠以外は全部君と共にある。 それでは、駄目か?」
女性の涙を止める術を知らない山崎にとって、それは精一杯の言葉であり、心の底からの偽りなき本心でもあった。
駄目な訳がない。
声にすることが出来ず、そんなことはないという意味で小さく首を横に振るが、きっと酷い事になっている顔をあげる事ができない。
「
……泣くな」
もう一度言って、山崎は
の涙が鎮まるまでただその背を撫でてやる。
てっきり、いつもの調子で怒鳴られて大喧嘩になるとばかり思っていただけに調子が狂う。それこそ山南に止めてもらわねばならないような事になると思っていたのに。
それだけに、いつもは鉄火肌で気丈な
が泣きむせぶのが、愛おしく思えてならなかった。
山南は、少しぶり返してきた船酔いを鎮めるために、もう一度甲板の船尾に出ていた。
土方とは山崎の今後の扱いについて2、3話し合い、細かい事は江戸についてから煮詰めることにして一度話を終えた。
今頃は、『あいつらどうなった』とやきもきしている幹部連中相手に土方が事の次第の説明をしている頃だろう。
背後に現れた気配に、山南は微笑しつつ振り向いた。
「……もう一度、ここに来ると思っていましたよ」
「山南さん……」
「先程とは違う意味で、見られた顔ではありませんね」
どれだけ泣いたんだという酷い顔のほてりを冷ますために風にあたりにきたのだが、しっかりと山南に見られてしまった。
は苦笑すら返す余裕もなく、ふらふらと山南の隣で手摺にもたれかかる。
山南は先程とは逆に、自分がその背を撫でてやった。
は、事の全てを受け入れきれていない。
山崎が助かった事は嬉しい、だが羅刹という人ならぬ存在になった事に対する葛藤に苛まれている。
けれど山南は知っていた。
はやがて受け入れる。このまま折れて朽ちてしまうようなことはない。
今までだって女が身を置くには厳しすぎる環境で生きてきた。
どんな逆境だろうと苦難だろうと受け入れてそれを逆に力に出来る種類の人間だと、数年の付合いで山南はそれを身をもって知っていた。
だが今回は、事が大きすぎてそれを消化するのに少し時間が必要なだけだ。
そんな彼女に、山崎をこちら側に引き込んだ一端を担う者として手助けが出来る事があるならば。
「あなたにこれを、渡しておきましょう」
そう言って山南が取り出したのは、山崎に渡したのと同じガラスの小ビン。
呆然とそれを見る
の手を取り、山南はしっかりとそれをにぎらせるとその手の上から自分の手を重ねた。
「あなたにも、いずれ大きな選択を迫られる時が必ず来ます。 その時まで忘れていて良いから、これを持っていなさい」
「山南さん、どうして私にこれを」
「あなたが岐路に立たされた時に、きっと役に立ちます。 もちろん、これを飲むも飲まないもあなたの自由ですよ」
いっそ彼と同じ存在になってしまいたいと思うならこれを飲めと、山南がその選択肢を与えてくれているのだと気づいた時、
は信じられない思いで山南の顔を見上げていた。
そこには、出会った頃の優しい笑顔がそのままあった。
先程よりもよほど泣きたい気持になりながらも、なぜか涙は出てこない。
「羅刹となって、同じ生き地獄を歩むか、それともあなたは人のまま、生き地獄を歩む山崎君を支え続けるか……選ぶ権利はあるでしょう?」
「山南さん……ありがとう、ございます」
山南の手の下で、小ビンを握りしめた
の手に力が籠る。
同時に、幽鬼さながらだった目にも力が戻ってきていた。
「土方さんや他の人には、もちろん内緒……ですね? 山崎さんにも」
「ええ、さすがによくわかってますね」
山南に笑み返す余裕を取り戻した
は、握りしめたそれを大事に懐に仕舞いこんだ。
「波の下には都などない事、分かっていただけましたか?」
かつて、源氏の軍勢に追い詰められた平家の貴人……主に女性たちは、もはや一族の運命これまでと悟るや、生きて辱めを受けないために次々と壇の浦の海に身を投げた。
その中には、幼くして天皇の地位にあった安徳天皇とその祖母、二位の尼もいた。
腕に抱いた天皇……幼い孫に、この上どこに行くのか、都へ帰らないのかと問われた尼御前は、波の下にも都はありましょうと微笑みかけて、もろともに身を投げ水底に沈んでいった。
彼女たちが争いも戦もない、平和な都に辿り着いたかどうかを疑うのは不粋というものだが、山南の言わんとしている事は理解できた。
運命が用意したすべての道が閉ざされた訳でもないのに逃げようとする者が辿り着くのは、極楽でもなければ水底の都でもない。
後悔という、底なしに暗い奈落だけだ。
「馬鹿な考えはこれを限りにお終いにします。 私はこの運命を生き切ってみせる」
そうして命を使い尽して、笑って逝ってやると
は晴れやかに笑う。
その視線はもう、暗い波の下を見てはいなかった。
「……山崎君は、良い支えを得ましたね」
はたから見ている二人はすれ違ったかと思えば衝突するような、見ている側が危なっかしくてハラハラさせられっぱなしだったが、ここに来てようやく一つの形にまとまりそうなことに、山南はホッとするやら残念に思うやら、複雑な気持ちに捕われた。
「支えにしてはまだまだ頼り無いと思いますけれど、今後についてはこれからよ〜〜〜〜〜っく話し合ってきめるつもりでいます」
「おやおや、私闘まがいの喧嘩になるのはまだこれからでしたか」
「とことん向き合わなければ、これから先到底やっていけないでしょう?」
この寒いのに腕まくりの仕種をして、
は山南に一礼すると颯爽とした足取りで船の中へと戻っていった。
しゃんと伸びたその背を見送った山南は、我ながらお人好しな事だと思わず天を見上げた。
……羅刹の毒が自分の理性を……人であるための大事な部分を少しずつ犯していっているということは、山南自身が誰よりも良く分かっている。
遠からず山崎もそれを実感する日が来るだろう。
けれど傍らに
がいるのなら、どんな闇も狂気も彼を犯す事など出来ないだろう。そう確信していた。
「できれば、私の側に在ってほしかったんですが……適いませんでしたね」
適わぬ願いと知りつつも、惹かれあう山崎と
の幸福を願う気持ちに偽りはない。
今日の事は、自分の中に残っていた人間らしさがさせたことだろうと割り切って、山南はこの想いこそを暗い波の下に葬っていくことにした。