片恋雨
撫でるような雨音が耳に心地よい。
見上げれば、薄い雨雲が広がった空は向こう側の陽光を僅かに透かして、鈍く輝いている。
降るのは、細く静かな、春の雨。
濡れた空気が香しく流れ込む二階の窓辺で、だらしなく桟に腕をかけた姿勢で不知火は空を見上げていた。
不知火の傍らには、飲みかけの酒徳利と、注いだは良いが飲み干さないままの盃が、所在なさげに置かれていた。
心ここにあらずといった様子で暫く空を眺めていたが、不知火は酒を注いだままの盃の事を思いだし、のろのろと手を伸ばして持ち上げた。
ちろり、と舌先で酒をなめれば、気が抜けて腑抜けた味になってしまっている。
「不味い……」
ぼそりと呟いて、口元から盃を離せば、水面に酒と同じくらい腑抜けた自分の顔が写った。
不知火は不快げに眉を寄せ、窓から盃ごと酒を投げ捨てた。
カラン、と軽い音をたてて、盃は屋根瓦ので転がり、こぼれた酒ごと雨に流されて通りに落ちていった。
けだるい視線で盃が落ちるのを見送ったあと、不知火はゴロリと畳の上に横になった。
すすけた天井を見上げながら、何度目になるかもわからない溜め息をつく。
「呑んで忘れるつもりの酒が、か……」
想い募らす、春の雨。
都々逸のひとつを思いだしながら、ゴロリと寝返りをうって横を向いた。
目を閉じれば、目蓋の裏に想う女の姿が浮かぶ。
出会いからして敵だった。
銃弾で打ち抜いてそれでお終い、のはずの弱い人間。
友人の姉だと判ってからも、殺してはまずいかな、その程度の認識だった。
なのにいつしか、戦場で、街角で、敵として憎むにも味方として受け入れるにも曖昧な逢瀬を重ねるうちに、女の存在が心に焼き付いていった。
凛とした立ち姿、覚悟の据わった視線、男顔負けの覇気。
ぞくりとするほどの殺気とともに、抜いた刀の切っ先が、微動だにせずこちらの心臓に狙いを付けている。それそ想像するだけで肌が震える。
反面、自分以外の男に向ける、気を許した微笑みや、慕わしい者たちと過ごす時の、優しい声音を思いだせば、胸のあたりに苦いものがわいてくる。
あの声で。
自分の名を呼んでもらえれば、この鬱々とした気持ちなど、一気に吹き飛ぶだろうに。
不知火はまたも寝返りをうって、がらんとした部屋の畳の上に、片腕を投げ出す。
腕まくらのつもりだったが、伸ばしたこの腕を枕に想う女が隣に寝る事など、決してありえない。
鬼の男が人間の女に懸想するのは禁じられている。 子でも成せば、鬼の純血が失われるという理由で。
女鬼が少ない上に、生まれてくる子が男に片寄る鬼一族は、あぶれた男が近い種である人間の女との婚姻を重ねた結果、どんどん鬼の血が薄まり今や種の保存の危機に面している。
こんな想いを知らない頃は、不知火も里を抜け出し掟に背いて、はぐれ鬼となってまで人間の女に想い寄せる男鬼たちを、馬鹿な奴等だと冷めた目で見ていた。
だが、今は。
鬼に比べて遥かに弱い人間という生き物の、血の熱さに、想いの深さに触れるたび。
鬼と人との隔たりが、ただただ重い。
血の濃い鬼のひとりとして、己の心を殺さねばと自らを戒めるほどに、掟の重さが胸の深い場所からかつてない感情を滲み出させる。
「ああ、畜生……」
漂う雨の匂いさえ、想う女の肌の香りに思えてきて。
不知火は、もう片手を荒っぽく自分の目の上に被せて、無理矢理に目蓋の裏に浮かぶ姿を追い払った。
今日の浪士は、拳銃などという洒落たものを持っていて、銃口をこちらに向けられた時は少しだけ肝が冷えた。
が、同じものを持つ知り合いに比べて、度胸がたりなかったなと
は苦笑する。
良い道具をもっていても、人に向けて放てなければ意味がない。
銃声の威嚇だけで新選組が逃げ腰になると思ったのが運のツキ。
建物の壁に向けて撃たれた一発、次の引き金を引くまでの僅かな間。
間合いを一足飛びに詰めて、抜いた脇差の峰で拳銃を持つ指を強かに打ち据えた。
握りを保てなくなった所で外の面々が飛びかかり、浪士はあえなく御用となった。
それが、数刻前。
一緒に来た隊士たちに、浪士を屯所に連行してもらい、自分は奉行所への届け出や、捕物で荒らしてしまった建物の掃除や修理の手配、様々な雑用を終えてようやく屯所に戻れる段に漕ぎ着けた。
「……雨か、思ったより強いな……」
捕物の最中はまだ降っていなかったから、建物の中の片づけをしているうちに降り出したのだろう。
建物の主人に挨拶をすませ、外に出ようとしてみれば、庇の上から絶え間なく水滴が落ちてくる。
春の雨は細いように見えて、けっこう雨足が強い事がある。
走って屯所に戻れない事もないが、けっこう濡れるかもしれない。
このまま少し、雨宿りをさせてもらった方がよいかなと、空と地面を見比べたら、地面に妙なものが転がっていた。
「……盃?」
酒席で普通に見る、朱塗りのそれが、濡れた地面にコロンと転がる様子は妙な眺めだった。
一体どうしてこんな所に……と、
は思わず庇の外に出て、盃を拾い上げた。
雨が、さらりと肩にかかる。
湿り気が、着物についた硝煙の匂いをふわりと強めた。
鼻先をくすぐる、あまり馴染みのない匂いに、
は盃を手に取ったままひと呼吸の間動きを止めた。
今日の浪士が放った弾丸の残り香だろうが、
の脳裏には別の相手の姿が呼び起こされた。
傾いた態度に人を小馬鹿にしたニヤニヤ笑い、手にした銀色の銃を人に向ける時の、遊戯を楽しむような場違いな陽気さ、それに混じりあう異様な威圧感。
出会いからして最悪なのに、近頃何かと細かい用事で顔を会わせる機会が多い男。
「どうして思いだすかね、あんな馬鹿の事」
庇の下に戻った
は指先で盃をクルリと回す。
政治的な立場上敵対している。
『鬼』と名乗ってやりたい放題、やることなすこと、人の常識から外れている。屯所まで、勝手な都合で人攫いにまで来る。
なのに敵対するときとそうでない時をきっちり分けていて、敵でない時は妙に人なつっこい。
はっきり言って変な奴だ。
変な奴なのに、今日のようにフとした時に思いだしては、妙に気にかかる。
こんな相手は、今までにいない。
「……」
は視線を流し、もう一度クルリと盃を回す。
ふ、と短く溜め息をついて、庇から落ちる水滴を見上げた。
「そういや、そのうち一杯付き合え、なんて言われてたっけね」
細々とした借りもあるし、ここらで一気に返しておくのも良いかもしれない。
あいつ島原ではけっこうモテているようだし、綺麗なお姐さん込みで一杯奢ってやるかと、
は盃をまたクルリと回した。
こちらから誘ったりしたら、あいつ一体どんな顔するだろうかと、笑みを零す。
砂粒のついた盃の淵を指で拭い、奇妙な縁を繋いだそれを懐に入れる。
は屋内に取って返し、家の主人にもう少し軒先を貸してくれるように申し出た。
雨宿りするなら中に居るといい、という主人の申し出を断り、風情のある雨の中にいたいからと、と軒下から薄い雨雲が広がる空を見上げた。
の居る建物の向い側。
寝転がって、二階の部屋の中から同じ雨の降る空を眺める不知火。
自分が苦い想いとともに投げ捨てた盃を、拾い上げた者がいるとも知らずに。
軒下にいる
も、ふと心に掛かった相手が、すぐそこにいるとも知らずに。
互いに、心騒がせる雨を仰ぎ見ていた。