夏の風物と誤解の種
昼間、中途半端な雨がふったあとまたも晴れたせいで、夜の蒸し暑さは大変なものとなった。
いっそ派手に降ってくれれば夕方から涼しくもなろうもものをと思っても、天の機嫌に文句をつけるわけにもいかずに、新選組隊士たちは盆地ゆえに涼風の吹き込みにくい京の夏を嫌な意味で満喫していた。
とても閉め切ってなど寝られないので、窓も襖も障子も開け放ち、少しでも風通しを良くして休んでいるのだが、少し問題が出てきた。
この蒸し暑さに加え、間借りさせてもらっている八木家と前川家の周囲は京とはいえ緑も豊かな農村部。
そこにここ数日の天候が重なり、薮蚊が大発生した。
殺虫性分を含む植物、除虫菊の登場は時代が下がって明治になってから。
この時代、まだ蚊取り線香はもとより殺虫剤など開発されていない。
できるのは、ひたすら我慢するか、蚊遣と呼ばれる煙りを焚くか、蚊に部屋に侵入される前に蚊屋を吊るすくらいだ。
「あっ、蚊遣り?
ちゃん、僕にも少し分けて」
庭にでた
が煙りを焚いていると、暑さと蚊のうっとうしさにたまりかねたのか、寝巻き一枚の姿で沖田がやってきた。
蚊遣りといっても素焼きの豚の置き物の中に煙の出る草を入れて焚くようなかわいらしいものではない。
落ち葉掃除をしたときのようにこんもりと青草やら生木なとを重ねて、無理矢理火をつけて煙りを大発生させている。
「どうぞどうぞ。 あ、これ効きますよ」
は山の中から葉のついた杉枝を取り出した。
半端に火に炙られたおかげでいい感じに煙りを出している。
「ありがと。 ほんっと、寝られたもんじゃないよね」
かといって寝ないと明日もたない。
「新八さんたちみたいにお酒をガーーッと飲んで寝ちゃうのもアリなんだろうけどさ。 そこまで飲めなくて」
「お酒飲んで寝てる? ……大丈夫かな」
「心配しなくても、二日酔いなんてかからないよあの人たち。 所で
ちゃん、君さっきから何してるの」
は熾した煙の中に息を止めて入ったり出たりを繰り返している。
「煙のニオイがついてるとね、蚊やブヨってよってこないんです。 体中着物は煙くさくなるし髪にニオイがついて洗うまで取れなくなるんだけれど、背に腹は代えられないっていうか」
「たしかにねぇ。 この暑さで食欲も落ちてるところに寝られない、なんて事になったら本当にもたないもん。 僕もやってみていい?」
沖田は息を大きく吸い込み、風下に立って煙の中に立った。
だがすぐに出てきてしまう。
「うわ……目にしみる。 失敗しちゃったな」
息はとめたが目を閉じるのを忘れてしまい、煙が目に染みて思わず生理的な涙が出てしまう。
あわてて袖で拭ったが、これは水洗いしたほうがよさそうだと一旦井戸端へ走る。
沖田が戻ってきたときには、やはり眠れなかったのか土方も起きだして煙のついた生木を一本分けてもらっている所だった。
「おう、お前も眠れねぇのか……」
土方の声はいかにもけだるげで、ただでさえ不足しがちな睡眠時間をうっとおしい蚊のせいで削られてしまい、機嫌も悪そうだ。
「土方さん、
ちゃんに教えてもらったんですけれどね、体中に煙りを浴びちゃったほうが臭いで蚊がよりつかないそうですよ。 全身いぶくさくなりますけど」
「おう、そうか、そりゃあいい」
土方も風下に立ち煙りを浴びようとしたが、とたんにむせ返り中から飛び出す。
吸い込んでしまった上に目にしみたのか、前かがみになって涙さえ滲ませて咳き込む様子に、沖田も
もつい吹き出した。
「あっははは、鬼の目にも涙だよ、
ちゃん」
「土方さん、息とめて入らないと。 目は洗って来た方が良いですよ」
咳き込みがおさまった所で、土方はキッと二人を睨み付ける。
「そういう事は先に言え、てめぇら……ちくしょう、蚊屋買うか」
「それがいいでしょうね、お休みなさい」
眠さで怒る気力もないのか、煙の出る枝を片手に土方はふらふらと部屋に戻っていった。
その後煙をたっぷりと全身に浴びた沖田も、部屋に戻ってみて効果を実感する。
廊下の障子を全開で開け放しているというのに、蚊が寄り付いてこない。
普段なら顔まわりや耳もとにうっとおしい音がして、さらには叩こうとすれば逃げられて、寝られたものではないのに。
「うん、これはいいや。 明日は
ちゃんにお礼しなきゃ」
今夜はゆっくり寝られそうだと、沖田は布団を鳩尾のあたりまで引き上げた。
そういえば、
が酒を飲んで寝た連中のことを妙に心配していたがあれは何だったのだろうと思いつつ、沖田は夢の中へと落ちていった。
その心配の原因が何だったのかというのは、翌朝明らかになった。
「……村の長老のじいちゃんが言ってたんですけどね。 夏の蚊って、何故か汗臭い輩や酒の臭いに優先的に寄り付くそうなんです。 夏の開けっ放しの所へ大酒かっくらって寝てたりなんかしたら、もう」
目もあてられない事になる……と。
まさにその通りだった。
こういう時こそ暑気払いに飲まねばと酒をかっくらって寝た永倉・原田・藤堂は、昨夜のやぶ蚊大発生でいつもの数割り増しで狙われた。
ぐっすり眠っていた事が禍いして、食われても全然気付かないまま一夜をすごした結果、全身数十ケ所を刺され倒し、身体のあちこちがぷっくりと腫れ上がり、痒い痒いと大騒ぎだ。
「総司! お前は何で一ケ所も食われてないんだよ! ちくしょーーーかいいいいい!」
「そりゃあ僕は
ちゃんにいいこと教えてもらったもん。 ありがとうね、
ちゃん」
幹部一同が揃った朝餉の席で、給仕をする
に昨日の夜は楽しかったねと笑いかける。
「総司てめ……いいことって、夜って、まさか……!」
「誤解ですよ!」
おろおろと沖田と自分を見比べる永倉の様子に、
は即座に否定する。
「妙な想像は止めて下さい」
「えー? 僕は誤解されちゃてもいっこうに構わないんだけれど」
「こっちは構います」
そこへ、朝餉の席に遅れてきた土方が加わった。
土方は永倉たちの惨状を見て目を丸くする。
「何だぁお前等。 そんなに食われるなんてよほど美味だったのか?」
「ええ、風味抜群だったみたいですよ」
沖田のからかいに、藤堂がうるせーや、と小声で返す。
「何で土方さんも一ケ所も食われてねーんだよ。 蚊もよりつかないほど血が不味いのか?」
「残念ながら、俺は五条にいいこと教えてもらったんでな。 おう、昨夜は助かったぜ、また頼む」
あの蚊に邪魔されずに後よく眠れたらしい土方は上機嫌だ。
もくもくと煙りを出す生木を部屋に持ち帰った後、一旦障子を閉めて部屋を燻したあと、自分の身体や布団にも煙の匂いをつけてみた所、蚊がぴたりと寄り付かなくなった。
お陰で蒸し暑い夏の夜をやぶ蚊に負けて閉め切った中で過ごさずに済み、久しぶりにゆっくり眠れて頭もすっきりした。
だから、どうしてそう誤解を招く発言を……と肩を落としている
の隣で、原田がそっとささやく。
「お前、土方さんまで落としてるのか。 しかも一晩二人たぁ、見かけによらずやるな」
「だ、か、ら、違いますってば!」
しまいにゃ怒りますよとしゃもじを握りしめる
に、原田はおお恐いと肩をすくめる。
結局、蚊遣りの煙りを分けてもらっていただけだと分かったのだが、今度は蚊帳を買う、買わないでもめることになる。
「だってさ、蚊帳の中に布団並べて寝るのってさ、何かイイじゃん」
……という、藤堂のさらりとした一言で、男たちの競争心に火がついた。
それまで無言だった斎藤までもが言い争いに参加している。
蚊遣りの煙と蚊帳でまさかこんな騒ぎになろうとは。
もう勝手にやってくれと言わんばかりに膳の片づけに入った
は、諦めての極地のため息をつきそのまま廊下から今日も暑くなりそうな都の空を見上げた。
「……秋、まだかな」
一日も早く障子をしめて眠れる日が来てくれないと、また安眠できなくなりそうだ。
取りあえず蚊はとっとと全滅してくれと祈らずにはいられなかった。